
雅楽とは、日本古来の神楽や歌謡と、大陸から伝来した音楽や舞が融合して成立した、日本の伝統芸能の中でも最も格式高い音楽体系のひとつです。
古くから宮中の儀礼や神社仏閣の祭礼に用いられてきたこの芸能には、視覚的な美をもつ「舞楽(ぶがく)」という舞を伴う形式が含まれます。舞楽は、楽器による演奏と共に舞うことで、音楽と動作が一体となった荘厳な空間を作り出すものです。
舞楽には、大陸文化の影響を色濃く受けた「左方(さほう/唐楽系)」と、朝鮮半島を経由した「右方(うほう/高麗楽系)」があります。左方は赤い装束で演じられ、右方は緑や青を基調とした衣装で舞われます。演目によっては甲冑や仮面を使用し、武勇を象徴する力強い演舞から、優美な女性舞のような柔らかい動きまで、内容は多彩です。
日本における雅楽と舞楽の定着は、7~8世紀、飛鳥・奈良時代にかけて進みました。遣唐使や帰化人によって大陸の音楽や舞踏がもたらされ、天武天皇や聖武天皇の時代に楽人の制度化が進みます。平安時代には宮中に「楽所(がくそ)」が設けられ、専門職としての楽人が育成されました。こうして雅楽は、宮廷儀式や国家祭祀と深く結びつき、日本文化に不可欠な儀礼音楽としての地位を確立していきます。
しかし、鎌倉時代以降の武家政権や戦国の混乱の中で、雅楽の基盤は次第に弱体化していきます。
これに対して、江戸時代に入ると徳川幕府は文化政策の一環として雅楽を保護し、「紅葉山楽所(もみじやまがくそ)」を江戸城内に設置しました。
ここでは、宮中や貴族に仕えていた楽家(がくけ)出身の者が集められ、楽曲や舞の伝承が行われました。特に壬生家、東儀家、林家などの雅楽家は代々紅葉山楽所に所属し、その技芸を支え続けました。この時期、雅楽は公儀の文化として体系的に再整備され、現代に続く基礎が築かれました。
近代に入り、明治政府は国家神道を掲げ、雅楽を宮中儀礼の中心として再編します。これにより宮内庁(当時の宮内省)内に「楽部」が設置され、紅葉山楽所を引き継ぐかたちで雅楽の演奏・伝承を担う組織となりました。
戦後も引き続き、宮内庁式部職楽部として活動を継続しており、現存する最古の演奏芸術の担い手として国内外で高く評価されています。
一方で、仏教との関係が深い「寺院系」の雅楽も独自に発展を遂げました。特に大阪の四天王寺は、飛鳥時代以来の雅楽伝承を継承しており、宗教儀式としての舞楽を今なお奉納しています。この四天王寺を中心とした仏教系の流れと、宮内庁を中心とした皇室系の流れが、現代の雅楽における二大系統として共存しています。
現代では、春日大社や石清水八幡宮など各地の神社でも、伝統的な舞楽が神事として奉納されており、一般公開もされています。課題としては、演奏者の高齢化や楽器職人の減少がありますが、映像記録の整備や海外公演など新たな取り組みも始まっており、千年以上にわたるこの芸能は、今もなお静かに息づいています。