
今日、能は日本を代表する伝統芸能として知られていますが、その源流をたどると「申楽(さるがく)」という芸能に行き着きます。さらにその申楽も、中国から渡来した「散楽(さんがく)」に端を発しています。能は突然に成立したわけではなく、数世紀にわたる芸能の受容と変容の中で誕生してきたものです。
散楽は、唐の時代に中国で盛んに行われていた大衆的な雑技や寸劇、音楽や舞踊などを含む複合芸能です。これが奈良時代、遣唐使などを通じて日本にも伝来し、当初は宮廷や寺院の催しなどで披露されていました。こうした芸能は、朝廷の儀礼的行事の一部として上演されていたため、当初は国家の保護のもとに位置づけられていました。
しかし平安時代に入ると、散楽の中からいくつかの要素が独立し、田楽や猿楽といった新しい形態へと発展していきます。申楽はこの文脈の中で派生した芸能で、滑稽さや身振りを主体とする演技を含んでいたことから、庶民に親しまれやすい性格を持っていました。申楽の名称は、「申(さる)」=「猿」と「楽(がく)」の当て字とする説もあり、「猿楽」と表記される場合もあります。
特に平安後期から鎌倉時代にかけて、武士階級の勃興とともに、寺社や町中を中心とする民間芸能が力を持ち始めます。この時代、奈良の興福寺などに属する芸能集団が申楽を体系化し、大和猿楽と呼ばれる組織的な演劇集団を形成していきました。彼らは寺社の行事や祝祭、信仰儀礼と密接に結びつきながら、芸能者としての地位と生活を確立していったのです。
このように寺社に所属することによって申楽の芸能者は保護を受けつつ、芸に磨きをかけていきました。演目も徐々に定型化し、舞やセリフの構成も整えられるようになっていきます。これが能へと進化していく下地を形成していくことになりました。
そして、室町時代に入り、申楽の革新を成し遂げたのが、観阿弥と世阿弥の父子です。彼らは大和猿楽の芸人でありながら、従来の猿楽にあった滑稽性をそぎ落とし、より洗練された舞と詩的構成を取り入れた新たな舞台芸術を築いていきました。特に世阿弥は『風姿花伝』などの著作を通じて芸の哲学を明文化し、能を精神性の高い芸術に昇華させています。
この過程で、申楽本来の大衆的・土俗的な要素は形式の整った能の中には収まりきらず、一部は「狂言」として分離していきました。狂言は能の間に挿入される滑稽劇として発展し、申楽における笑いや風刺、日常的な人間模様を引き継いでいきます。
室町幕府の支援もあり、能は武士の式楽(公式芸能)として定着しますが、それと引き換えに、自由度の高かった申楽は主流から外れ、徐々に衰退していきます。形式美を追求し、精神性を重視する方向へと特化していったことで、庶民に根ざしていた申楽はその存在意義を失い、歴史の表舞台から姿を消していくことになったのです。
現在、私たちが目にする能の中には、こうした申楽の名残がさまざまな形で息づいています。舞の型、演目の主題、狂言との関係性など、すべてが長い芸能史の積み重ねの上に成り立っています。申楽はすでに独立した芸能としては失われていますが、その精神や技術の多くは、今も舞台の上で脈々と受け継がれているのです。