
元禄15年12月14日、前夜からふり続く雪の中を、赤穂の浪士たちは三々五々、本所林町の堀部安兵衛の隠れ家に集結。全員が火事装束に身を固め、揃った人数は47人。この中で実際に人を切った経験の有るのは決闘・高田の馬場にての堀部安兵衛只一人であった。
前夜の雪の上に霜が降り満月に近い月明かりの中を本所松坂町吉良邸に到着するや、表門裏門と二手に分かれ突入するが、吉良上野介の顔を知る者は誰一人いなかった。決着がついたのは一刻(約2時間)後であったという。
この一連の赤穂事件はその後、浪士切腹のはや数日後には江戸中村座の狂言、曽我五郎・十郎が仇の屋敷へ討ち入る「曙曾我夜討(あけぼのそがのようち)」と題して劇化されたが、公儀に遠慮してわずか3日で中止されてしまった。
そして4年後の宝永3(1706)年には大阪・竹本座で近松門左衛門作の人形浄瑠璃「碁盤太平記(ごばんたいへいき)」になるが、ここでも公儀をはばかり実名をさけ、高師直・塩冶判官・大星由良之助となった。これらの先行作品の集大成と言える「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」が大阪竹本座にて上演されたのは奇しくも主君内匠頭切腹の47年目に当たる。江戸、京、大阪でもこぞって上演され、江戸三座では一年中「忠臣蔵」で明け暮れ、入りの悪い劇場では忠臣蔵を上演すれば大入り間違いなしと言われ、劇場にとって「独参湯(どくじんとう)」(漢方の気付けの特効薬)とも言われた。
そしてこの四十七士の中には江戸中野の御犬小屋建設で疲弊の末分断された、津山森家の元家臣、神崎与五郎・茅野和助・横川勘平の三士が居る事も忘れてはならない。
毎年12月には三士会の供養が徳守神社にて営まれている。





















