
加茂町・百々の地は、山の息遣いがまだ素朴に残る。杉木立の間を抜ける風が、どこか古い祠の気配を運んでくる。
サムハラ神社の祠の荒廃を嘆き、これを再興した田中富三郎翁が生まれたのは、明治元年のことである。
今回、サムハラ神社について話を聞いた金尾さんは、全国から訪れる参拝者に、神社の言い伝えを語りながら案内している。取材したこの日も、観光バスでの参拝者の案内を数日後に控えている状態だった。
さて、全国的に有名なサムハラ神社の紹介だが、祭神は天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神の造化三神。「サムハラ」はこれら三神の総称であるらしい。
村人の記憶によれば、百々の一角には古くから小さな祠があり、中には読めぬ文字が刻まれた石が安置されていた。それが何であるのか、誰が祀ったのかも定かではない。
ただ、マムシ除け、怪我避けに霊験があると語り継がれ、里人はそれを“サムハラ様”と呼んで畏れ敬っていた。
富三郎自身も若い頃から、山に入るときには必ず祠に手を合わせたという。山深くへ分け入る時、人は祈りの対象を求めるものだが、彼にとってサムハラは生活と切り離せぬ存在だった。人生の節目というより、日常の延長にある神だったのである。
その祈りは、やがて幾度もの死線を越える支えとなる。日清戦争、日露戦争、さらには常盤丸事件や鉄嶺丸沈没――歴史に刻まれた惨禍が、次々と富三郎の前を通り過ぎていった。だが、そのたびに彼は「命拾い」を繰り返した。戦地に向かう彼の懐には、いつもサムハラの護符があった。本人は晩年、周囲に「サムハラ様のご霊徳である」と確信をもって語っていたという。迷信と一笑に付すのは容易だが、危機のたびに生還した人間の言葉には、単なる信仰以上の重みがある。
昭和に入ると、富三郎は地元の古祠を復興することを決意する。昭和8年、日詰山にサムハラ神社を建てた。
当時の記録には、その祠を囲む人々の静かな熱気が残っている。しかし、この試みはやがて特高課の干渉を受け、昭和11年、類似宗教として社殿を自主撤去せざるを得なくなった。国策の荒波が、山里の祠にも及んだ時代である。それでも戦後、昭和21年には再び奥の宮の再建にこぎつける。信仰は一度押し流されても、地下水のように再び湧き上がるものだ。
富三郎の足跡は、加茂町だけに留まらなかった。昭和25年、大阪・中之島にサムハラ神社を創建し、さらに昭和36年には西区立売堀へ遷宮した。戦後の都市化が進む大阪において、地方の小さな祠に宿っていた信仰が、新しい形で息を吹き返した瞬間だった。さらに平成17年には、奥の宮が現在地へと移築され、今もなお参拝者を迎え続けている。
というものである。






このサムハラ神社を参拝しに、全国から大型観光バスで来る団体客が多いのだが、金尾さんは津山市街からバスに乗り込み、加茂までの約20分~30分の間で、先に書いたようなサムハラ神社についての話を行うのだ。
元々行政の広報を担当していたことがある金尾さん、時間が限られていることもあり、あまり長い話をしないように心がけているのだという。
何かエピソードはないですかと尋ねたところ、ガイドをしていて驚いたことがあるとのこと。実はサムハラ神社の公式な参拝方法は、六礼八拍手して祈念し、八拍手六礼で終わる。
このやり方を、一般の参拝者に初めて教えたのが2年前、それがSNSで投稿されると、瞬く間に広がって、僅か数か月後には『六礼八拍手、祈念、八拍手六礼』をする人が増えだし、今では参拝する人の殆どが、何も教えなくても『六礼八拍手、祈念、八拍手六礼』の参拝を行っているのだそうだ。
SNSの驚くほどの情報拡散のスピードと強力さを実感し、今でもネット上の口コミは広がり続けて、年々全国からの参拝者は増えているのだという。
そんな金尾さんのガイドは、観光協会を通じての団体客が中心となっているため、個人や地元参拝者へのガイドはあまり行っていない。しかし個人や地元の人にガイドしないというわけではないので、そこはご縁があったらということらしい。
「神様に呼ばれた人だけがたどり着ける」と言われるサムハラ神社、そのガイドを務める金尾さんとは「神様のご縁があれば巡り会える」といった感じだろうか。
今回の取材で、紙面の都合もあり記事にできなかった話もたくさんあった。
神様に呼ばれた上、金尾さんにもご縁があれば、これらの話が聞けるということで、皆さん、ご縁を探してみてください。



















