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木山神社

一般に木山神社は、「弘仁年中の創建。素戔鳴尊、木山牛頭天王を祭り、牛馬の神、五穀豊穣や商売繁盛の神様として多くの信仰を集めてきました。神仏混合の霊地で、かつては木山寺とともに『木山様』と呼ばれて木山山上にありました。本殿は入母屋造平入り銅板葺で、大正8年に再建立。随神門には県指定文化財の門客人神立像が安置されています。」との紹介がされています。

上記の通り、木山神社は素戔嗚尊を主祭神とし、社伝によると816年に京都の八坂神社から分祀され創建されたと伝えられる神社となります。
しかしながら、八坂神社の創建については、廣峯神社の記録によると、「869年の悪疫流行の際」に蘇民将来の故事を持つ素戔嗚尊が、八坂神社に分祀されたとあります。
これが本当であると、時系列的に816年に八坂神社から分祀されることは、物理的に不可能になります。
八坂神社の社伝によれば、八坂神社創建については「656年、高句麗から来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)」とされています。要は、伊利之使主が朝鮮半島から牛頭天王の信仰を日本へ伝えたとの記録です。

しかし、牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされまますが、近年の研究によると実際にはインド、中国、朝鮮において信仰された形跡はなく、日本独自の神の可能性が極めて高く、八坂神社総本宮説は怪しくなります。

また、備後風土記に残っている蘇民将来伝説の元でもある679年創建の福山市新市町にある素戔嗚神社には、734年に吉備真備が遣唐使の役目の帰りに、荏隈の国(スサノオ神社)に立ち寄り素戔嗚尊を白幣山(廣峯神社)に請勘したとの文書があります。


また、1223年の廣峯神社の文書にも「祇園本社播磨国広峯社」とあります。
さらに、869年に京都八坂神社へ祭神を分祠する際に通過して休憩したと伝えられる神戸の祇園神社や大阪の難波八阪神社、京都の岡崎神社などのような祭神の遷座の旧跡も存在し、共に御由緒書に播磨の国より疫病などを鎮める為に京へ分祀される途中で御休憩、御泊りされた由が書かれています。




通常の見解では八坂神社から816年に分祀されることはあり得ないはずです。
その年に八坂神社から分祀されたことに過ちがあるのであれば、年代に過ちがあるのか、請勘元に過ちがあるのかどちらかになります。
木山寺が815年に弘法大師により開かれていることを鑑みれば、年代に過ちがないと仮定する方が自然でしょう。


では、八坂神社からの分祀が過ちだとすると、他にどこから請勘を受けてたとすると辻褄が合うのでしょうか。
その年代に牛頭天王の信仰があったのは679年創建とされる素戔嗚神社か733年に素戔嗚神社から請勘を受け創建された廣峯神社です。
時系列からみると、どちらから請勘されても不自然なことはありませんが、位置関係を考えると福山市の北部にある素戔嗚神社の方が、岡山県の北西部にある木山神社には圧倒的に近い事が分かると思います。
また、距離の問題だけではなくだけではなく、祇園信仰発祥元でもある福山市にある素戔嗚神社からの直接の分祀を選ぶ方が自然ではないかと考えます。
もし、この通りだとすると、木山神社は天王社としては京都の八坂神社より古いだけではなく、発祥元の地よりの直接の分祀ということで、由緒書にある「京都祇園の八坂神社、播磨国の広峯神社の牛頭天王などと並び、日本最古の天王社として広く一般庶民の信仰を受けていた」の通りとなります。


近年の動きとしては、1962年の「里宮造営事業」で神社が木山山頂から山麓に遷宮され、現在の境内が新たに造営されました。
新たに造営された本殿は、平入の向拝3間の堂々たる拝殿と幣殿でつながる立派なものです。
その拝殿と社務所が渡り廊下でつながれています。
他の構造物として、太鼓殿、神楽殿、手水舎、隋神門があります。

現在里宮の境内にある建物のうち、本殿を除く建築物は全て旧境内地からの移設で、元々の本殿は「奥宮」(岡山県指定文化財)として山頂に残っています。

この木山神社は境内末社が2社あります。
善覚稲荷神社と天満宮です。
両社とも木山神社本殿と並んで祀られており、特に稲荷神社は大きなお社で幣殿、拝殿を持ってます。





社務所には神猫のクックさんがおり、みなさんのお詣りを待たれています。
近年ではクックさんの絵馬なども人気を博しています。


所在地: 真庭市木山1265−1
電話: 0867-52-0701

(ライティング:星護 禄胤)

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