アットタウンWEBマガジン

短歌への誘(いざな)ひ@歌壇

2023年01月16日

みどり児の匂ふ重さよ幾とせを
 待ちて我が娘(こ)の母となりける

橋本 眞佐子


●待ちにまちに待たれた作者がお祖母様になられた歓びを詠み込まれた短歌だ。
その待望の時間の長さを、初句の「みどり児の匂ふ重さよ」と表現されているあたり作歌に手慣れた上級者の歌である。続いて「幾とせを」「待ちて我が娘(こ)の」と高ぶる感情(歓び)を抑えて、通常ではここで(嬉しいとか、わくわくするとか)直接的比喩が入りがちだが、淡々と事実だけを書き「母となりける」と結んでいる。
 ちなみに「我が娘の」ののは「我が娘は」と同じ意味で文語調を通されている。
歓びに満ちた感情を抑えて詠まれているにも関わらず、この三十一文字全体から我が娘が初めて子を成した、心配も歓びもドキドキ感も全てこの一首を読んだ読者に委ねられて、それらの感情を受け取れない方はほとんど居ないのではないか。
 短歌の上級者になるほど、直喩(嬉しい、悲しい、寂しいなど直接的比喩)を使わないで、読み手にそれを三十一文字の中から感じ取らせる手法が出来るのである。

亡き歌友(とも)の墓前に屈み香の中
 語りかければ笑顔の浮ぶ

信清 小夜


●急逝されつい先月まで共に歌の勉強をしていた歌友(とも)の、お墓に参拝した時に詠まれた短歌と推察される。この歌も前出の短歌同様、本来の悲しみ(直接的比喩)を抑えて、率直に淡々と事実のみ詠まれている。
 まず、上の句に「亡き歌友の墓前に屈み」と悲しみを抑えて、歌友のお墓に線香を持ってお参りし、墓前での動作まで表現している。中の句「香の中」と受けて下の句で「語りかければ笑顔の浮ぶ」と結び、亡くなった歌友が誰にでも親しまれて笑顔の絶えなかった人だった事を思い出し、本来悲しいはずの語りかけに対し友の笑顔が浮び、それが逆に悲しみを演出しているように思われる。
 この歌のように得てして技巧に頼らない、簡素に表現された歌の方が読み手に共感されやすい場合が多い。作者は本当は悲しいし別れを悔やんでいるのだろう・・・
と深読みして貰えるのだ。この一首で作者のお人柄も偲ばれて良い歌である。

夕焼にひとり真向ひ涙する
 吾子身罷りて三十年(みそとせ)過ぎぬ

井上 襄子


●なんと悲しく切ない歌であろうか。日頃は毎日の生活に追われて、作者も過去の哀切極まりない事実に蓋をして生きていかなければならない。
 逆縁とは、祖父母を葬り両親を送り、自分が子に葬られるという順番が逆になる不幸を言う言葉だが、その逆縁を経験したご本人にしか分からない心の痛みが残るものだろうと推測できる。どういう経緯で亡くされたかは知る由もないが、日々の生活のふとした隙間に、在りし日の吾子との愉しかった思い出が入り込んで来る。
 しかも仕事に疲れている時や、雑多な悩みに心が折れそうになっている時などの夕方、これから深い闇に包まれる不安が、一層吾子を先に逝かせてしまった後悔に涙させてしまうのだろう。思えばもう三十年にもなるのか・・・。その十字架は未だこれからも作者が背負い続けていかれるのだが、お子様は必ず作者の裡に伴に生きて来られ、これからもずっと一緒に生きて居られると筆者は信じている。

晴眼のわれより巧く皮剥きし
 夫をもひつつ柿吊るしゆく

川上 悠子


●ご主人のことを思いながらの日々のいとなみを詠まれている相聞歌である。
私の方が目が良いのに、いつも主人の方が何をしても器用で、正月用の吊し柿を作る季節になると思い出す。あの人は私より上手に皮を剥いていたよね・・・。と
 「夫をもひ」は夫(つま)を思ひの、(おもひ)を約音(おを約し)もひと表記した。
ただ、もし作者が寡婦でご主人を亡くされているなら、亡夫(つま)と表記された方が読み手によく伝わるのではないかと思う。短歌では極力ルビを振らないとか、息子を「息子(こ)」と表記したり、湖(みずうみ)を湖(うみ)と表記することで短歌の作品そのものを否定する指導者が居ると聞くが、筆者は「短歌」を詩(ポエム)の定型(5、75、7、7の三十一文字)表現と捉えている。日本語の表現は古来、外国(中国)から伝わった漢字を、日本語の音に一字一字当てはめて自国の言葉の表記に使用してきた。歴史的に言っても時代と共に読み方が変化してきているし、短歌は辞書に無い読み方はダメとか枠を狭める事が、短歌嫌いを増やしているのではないだろうか。



今月の短歌

明け初めて
氷雨の止みし
雲間より   
朝の日射しに
冬の虹たつ


矢野康史さん プロフィール




あさかげ短歌会津山支社代表。全国あさかげ短歌会代表。津山市西苫田公民館と一宮公民館の2カ所で短歌教室を指導している。津山市文化協会副会長。



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