読者の皆さんは、義鉈(ぎなた)読みというのをご存じでしょうか?読点を入れないことによって、全く意味が違う読み方が出来る文章の事です。
義鉈(ぎなた)読みの名前の由来は、『弁慶がなぎなたをもって』という文章からだと伝わっています。
「弁慶が、薙刀を持って」「弁慶がな、義鉈を持って」と誤って句切りを付けて読んだという昔話から、そう呼ばれるようになったということです。義鉈とは武器として使う大ナタと言われています。
こんなものもあります。
『ここではきものをぬいでください』これも、「ここで、履き物を脱いでください」「ここでは、着物を脱いでください」と読点の入れ方で、意味が違ってくるのが分かると思います。
このように、句切れがハッキリしなく誤読してしまうことを、義鉈(ぎなた)読みといいます。
もっと紹介すると、
『ぱんつくったよ』「パン作ったよ」「パンツくったよ」
『ねえちゃんと風呂入った』「ねえ、ちゃんと風呂入った」「姉ちゃんと、風呂入った」
『なんかいも見たい』「何回も見たい」「なんか、芋見たい」
『のろいのはかばだ』「のろいのは、カバだ」「呪いの墓場だ」
しかし、この誤読を言葉遊びとして、敢えて使用したものもあります。
最も有名なのが、つボイノリオの歌ったコミックソング「金太の大冒険」がそれです。「金太守って、金太守って」を聴いて大爆笑した人も多いのではないでしょうか。
『義鉈(ぎなた)読み』とは異なりますが、似たような言葉遊びで、難解読みがあります。
地獄と行き来が出来たとされる『小野篁』の嵯峨天皇との話が書いてある宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)という書物があります。
京中で見つかった「無悪善」という落書き。
嵯峨天皇への批判で「悪が無くなれば善となる」と書いてあったが、「悪いことが無いのが良いことであろう」と読んだとされています。
「悪が無くなれば善となる」と読むのなら、当時権力者の嵯峨天皇を悪ということとなりますから、「嵯峨天皇が死ねば良い世の中になる」ということになります。
また、宇治拾遺物語には、嵯峨天皇から『子子子子子子子子子子子子』の読みについて、尋ねられて、即座に「猫の子 子猫、獅子の子 子獅子(ねこの子の子ねこ、ししの子のこじし)」と読んだとされています。
読点の使い方として、よく例に出される『ははははははははのはははははははとわらう』や『ははははははははのはははのははははとわらう』は、皆さんもよくご存じだと思います。
『義鉈(ぎなた)読み』や『難解読み』も和歌の『掛詞』『縁語』『折句』と同じ言葉遊びです。
これを読んで、言葉遊びの世界(文学)に興味を持ってもらえたら、大変嬉しく思います。