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和歌における恋歌

 和歌において恋歌は切っても切り離せないもの。百人一首にあって恋歌の割合は半数近くあります。
それには、平安時代当時、貴族社会での恋愛や婚姻の形態が、今とは全く違うとこが理由としてあります。

 まず、当時は身分社会でしたから、今のような自由恋愛等はありません。身分の不釣り合いな男性から見初められないように、娘の姿は家族以外の男性から見られないような環境で育ちます。
 当時の恋愛から結婚までの流れを簡単に説明すると、女性が適齢期に差し掛かると、まず、女性の親が娘にふさわしい男性を見付けます。
そして、その男性に届くように「あの家の娘は、凄く綺麗で優しくて気が付く女性らしいよ」といった内容の噂を流すところから始まります。
そして、男性にその気があれば、女性に対して和歌を詠み送ります。
その和歌を読み、女性が男性に興味を持った場合のみ侍女がお断りの歌を代筆し返信します。興味が出なかった場合には返信がありませんので、一度お断りするというのが当時の儀礼だったのでしょう。
その後、女性と男性の間で直接、和歌のやりとりを繰り返していきます。
双方の思いが募ってきたら、いよいよ女性宅に男性が訪問するのです。

ここまでで、最も少ない場合でも7~8通、やり取りが増えた場合などは、数十通の恋歌が詠まれることになります。
このように、上手くいかない場合などは、途中で自然消滅したりもします。その場合でもそれまでに歌は詠まれています。
さらに、ここから先、女性の屋敷に訪問となった場合でも、まずは、お互い簾と襖ごしに会って、男性が和歌を詠み侍女を介して渡します、女性も侍女を介して和歌を返すとなります。何度か和歌のやり取りが繰り返され、そこで、お互いに気にいると、情を交わすことになります。
この流れを知れば、当時の歌で恋歌が非常に多いことに納得される人も多いのでは?と思います。
その後、男性が女性を気に入った場合は、「後朝の文(きぬぎぬのふみ)」といって、3日女性の屋敷に通います。3日目の夜に「三日夜餅(みかよのもち)」を食べて、男性は女性の一族に婿として認められるのです。

もっと言えば、平安時代は「通い婚」で、夫婦がそれぞれ別の家に住んで、定期的に相手の家を訪れて数日間を暮らす形態でした。その上、複数の妾(しょう)を持つことが当たり前だったので、男性の足が遠のくと、女性は、どこかの妾のところへ出かけているのかと、気が気ではありません。
それでも、女性は夫が来てくれるのを待つしかできません。そのため、自分の想いを和歌にして男性に送るのです。
当時、驚くほどの数の恋歌が詠まれた理由は、こういう理由からだったのです。

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