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観月会と中秋の名月

 中国では古くから十五夜に月を観賞する風習があり、唐の時代に秋の旧暦8月15日に観賞する文化が定着したと言われています。
中秋というのは、旧暦で7月、8月、9月を秋として、ちょうどその中間にあたる8月15日を「中秋(ちゅうしゅう)」と定めています。ちなみに、2024年の中秋の名月は9月17日の火曜日となります。

 さて、今の日本でのお月見会のイメージは、ススキを飾りつけ、月見団子を食べながら月を見るものやお茶会、もしくは伝統芸能や音楽などを鑑賞する催しといったイメージを持たれる人が多いのではないでしょうか。
ここでは、平安時代に唐から伝わり、日本の平安文化として発展し、現在の形に定着した月見について色々書きたいと思います。

 平安時代の観月の宴では、池の水面に映った月を釣り殿から、あるいは船を出すなどして愛でるといった、直接的ではない方法で月を楽しんでいました。
さらには、酒の杯に月を映して飲んだり、歌にお題として月を詠み込むなど、今のように直接月を見上げる事はなかったようです。
これが、月が低い軌道を通る夏や、逆に角度が高すぎる冬では、上手く水面に映り込めないため、中秋の時期だったことが、平安文化に溶け込んで、日本で月見が定着していった一番の要因だったのかもしれません。

 室町時代も後期になると政情が不安定となり、戦に明け暮れるようになると、遊宴文化が急速に衰退していきます。これで平安時代から続いた間接的に月を愛でるという雅な文化が、今のような直接月を見上げる文化に変化していきました。
それと同時に、名月の日に月を拝んで供物を供えるなど、宗教的要素を含んでいくようになります。
秋の収穫に対する感謝の念や、次の季節の豊作を祈る意味などを込めてお供えするといった具合です。この頃に供えられたものとして、枝豆・柿・栗・瓜・ナス・芋・粥などが記録に残っています。

 月見文化が一般庶民に広まったのは江戸時代、世の中が安定する1700年代になります。
遊び人が遊郭で、夜遅くまで遊び呆ける言い訳として、月見を口実にしたともされています。また、この頃から十三夜の月も月見の対象となります。
十三夜は枝豆を、十五夜は里芋や、芋を模った団子を供えるようになったことで、十五夜を「芋名月」十三夜を「豆名月」と呼んで祝うようになったとされています。

 全国的に、ススキを飾るようになったのは、明治以降。
それまで、関東、東北などで秋に収穫できる稲穂に見立てて飾っていたものが、全国に普及していきました。また、地域によっては、ススキは邪気や災いなどから遠ざけると言われているため、月見が終わった後には魔除けとして軒先などに吊るす風習が残っている地域もあります。

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