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和歌(やまとうた)の繁栄と衰退

 和歌といえば、「万葉集」を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。実際に、万葉集には、貴族をはじめ防人などの、自由な思いを詠った和歌が多く残っています。

 平安時代になると、遣唐使が廃止された煽りで海商と呼ばれる商人の行き来が増えていき、平安時代の当初は、ひらがなが普及してないこととあいまって、漢詩文が公的な文学となり、和歌は貴族たちが挙って恋い焦がれる思いを和歌にし、異性へと送る贈答歌として使われるのみで衰退していきました。
その後も広く中国文化が広まる中で、貴族たちの間で日本独自の表現を用いる気風が高まり、その結果、国風文化が花開くこととなるのです。
平安時代中期には、仮名の発達とあいまって、和歌は次第に公的な文化として貴族社会に浸透していき、平安時代だけでも、複数の歌集が生まれることとなります。
それらの歌集はすべて趣が異なり、それぞれの雰囲気が感じられるものとなっています。
また、曲水の宴も平安時代には宮廷や貴族の邸宅などでも行われるようになり摂関時代には内裏の公式行事として催されました。

 鎌倉時代には、貴族が武家に政権を奪われ、政治に携われなくなるなどの事情もあり、貴族たちの中で和歌が、さらに盛んとなります。
後鳥羽上皇の命で新古今和歌集が編集されると、和歌文化は最も華やかな時期を迎えることとなるのです。
新古今和歌集を編纂した藤原定家の子孫が二条派・京極派・冷泉派の三派に分かれ、各流派による主導権争いなどが行われ、それぞれの和歌集などを編集したのみならず、和歌に独特の節を付けて詠み上げる披講が流行し、披講会が盛んに催されたのもこの頃からです。
披講には綾小路流や冷泉流などの流派が存在し、現在でも宮中の歌会始や神社での行事などで見ることができます。

和歌(やまとうた)から短歌に

 近年に入り、明治に正岡子規が現れます。この正岡が古今和歌集や新古今和歌集などに収められている掛詞や枕詞修辞法を多用した技巧的な詠み方を全面否定し、写実的、直情的な描写をした歌を、区別し短歌と呼ぶべきだと主張します。
修辞法の発展していなかった万葉集を引き合いに『万葉懐古』というスローガンで文学界を変えていきます。

古今和歌集
 思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ
 夢と知りせば 覚めざらましを

小野小町

現代語に訳すと、「彼を思いながら寝入ったので夢に出たの? 夢だと知ったなら起きなかったのに」
修辞法も係り結びを使い疑問形をうまく表現しています。

乱れ髪
 きみ恋し おぼろ月夜に 濡れつきぬ
 一人慰め 女せつなや

与謝野晶子

こちらはエロティックで、現代語にすると「好きな人を思いながら夜に切なくオナニーして濡れまくっています」
見たもの、思い、感じたままをストレートに表現する、正岡子規が提唱した短歌そのものです。

そして現代は、より自由で、そこにあるかのような日常の一コマを詠みSNSなどで投稿する人が増えてきています。

 初出社 ホーム目指し 息切らす
 ヤバイよヤバイ もうヤバすぎる


これなどは歌というよりも、まるでツイートでもしている様な感じです。今後は、このような歌が現代短歌として主流となるのかもしれません。

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