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久米南町 地域おこし協力隊  鈴木 史則さん

約2年半前に協力隊になって、ここ岡山県の県北である久米南町へ引っ越してきた。
出身地は神奈川県は横浜。俗にいうハマっ子だ。
東京で働き、その頃は東京に住んでいた。
仕事も広告関連。協力隊とは縁もゆかりもない。そんな鈴木さんが、なぜ『地域おこし協力隊』として久米南町にと不思議に思う。
田舎に憧れがあったわけでもないそうだ。特に、これがしたいということで、協力隊に応募したわけでもないという。
ではなぜ?
意外な答えが返ってきた「自分の人生の、この先を考えた時に、このまま都心で働いているだけで終わるのかな。何か変化が欲しかった。都心ではないゆとりが欲しいと感じたりもした」というのだ。
理由はいろいろ多いが、これっていう決定的なものを感じない、しかし話の中身は、ひとつひとつが、それぞれに、納得させられるような内容だった。




今、協力隊で行っているのは、キャンプ場の管理人と柚子の振興・PRだ。
仕事は受付や草刈り、またキャンプ場でのイベント企画など何でもこなす。
鈴木さんは他にも、協力隊での活動以外の時間で、農業を始めているという。
育てているのは、『キュウリ』と『ゆず』。キュウリは岡山県の生産量の約半分、そして有名なゆずコロッケなどにも使われているゆず。共に久米南町の名産となっている産品だ。
協力隊の活動の傍らで、毎日の朝晩と休日を利用して行っている。
そのため毎日が忙しく、遊ぶ余裕もあまりないという。




今年のキュウリは2畝だけの耕作だが、来年は6畝に一気に増やして生産する予定だという。
もうすぐ協力隊の活動が終了するが、当然の様に、久米南町に残り農業を行いたいと。
終了に伴い、来年の夏季には農業に専念できるが、協力隊の収入が減少する。それを補う分を確保する為にも、耕作地の拡大が必要だとのこと。
とりあえず、キュウリを栽培することにしているが、これもトライアンドエラーで、状況に応じて栽培する品目を変えていくことも否定せずに、やっていきたいという。




 さて、久米南町の協力隊の取材で皆さんに聞いているのが、久米南町を選んだ理由だが、こんな答えが返ってきた。
「前提として西日本で探したかったんです。東日本大震災の原発事故のことも、多少は気になっていたのもありますし」
協力隊に申し込みを検討していた当時で東日本大震災から7年、まだ関東や東北では心配が残っていた。当時、候補に挙がっていた場所が高知、岡山、島根だったそうだ。




その中で、台風などの自然災害が多く、南海トラフなどのリスクもある高知県が、まず消去されることとなった。その後残った、岡山島根のうち、新幹線が通り比較的交通の便がいい岡山県で探すことにした。
場所だけではなく、求められる活動の自由度も重要な要素だったという。
活動内容を限定して募集していた自治体を、まず候補から除いたら県北の自治体が残った。
残った内で新幹線駅のある岡山市への交通アクセスが最も良かったのが久米南町だった。
消去法で選んだ久米南町だが、下見できた時には分からなかったが、住んでみると地域の方の、ちょっとした心づかいが有難い。
近所の方が、バーベキューをする際に声を掛けて呼んでくれたり、迎えてくれているのが伝わってきて、久米南町を選んで良かったと思ったそうだ。




 逆に久米南町に移住して困ったことは、店が少ない、特に飲食店が少なく、疲れた時など自炊が面倒になることが多いそうだが、同じ店にしか行けないことだそうだ。
それでも、東京や横浜にいるより、暮らしやすさを実感しているという。
また、今になってみると、コロナが蔓延した今、東京や横浜でなく久米南町にいることは、運が良かったと考えているそうだ。
都会にいるのとリスクが全く違う。普段の生活とコロナ禍とで、多少の違いはあるが、大きな変化はなく、移住のタイミングが良かった。と感じているそうだ。




現在、ゆずの畑の位置や植えてある本数などをマップにしていること。
ゆずは消費が少ないため、あまり儲からない。将来的にも取り組む人が少なくなると感じているので、少しでもスムーズにマッチングできる様に資料にしている。
この取り組みは、地域への恩返しとの想いもあるそうだ。
すっかり久米南町の住民として根付こうとしている鈴木さんの姿を垣間見た思いだ。

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