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「わか」「やまとうた」

 和歌から始まり、以外の伝統芸能へと話を広げてきましたが、ここでもう一度、和歌の話に戻していきたいと思います。

一般的に、和歌は「わか」とも「やまとうた」とも読み、近代短歌以降の短歌とは区別される古典和歌がそれに当たります。
短歌には、長歌と短歌があるといった説明は、以前にもしていますが、実はそれ以外にも、連歌(レンガ)と旋頭歌、方歌という物があります。
この連歌と旋頭歌、方歌は、短歌、長歌とは異なり、1人では完成できない歌になります。
具体的には、一方の歌に対して、返事を返す形での歌があり、対でひとつの歌になります。
方歌は五七七の3句で作られた歌を質問として、相手に送るのが方歌となります。それに返句が来て、質問、回答が揃い6句になったものを、旋頭歌とよびます。
その後、質問回答形式ではなくとも旋頭歌と呼ぶようになったとされています。

例を挙げると以下のような感じです。

高麗錦(こまにしき) 紐(ひも)の片方(かたえ)ぞ 床(とこ)に落ちにける 明日(あす)の夜(よ)し 来(こ)なむと言はば 取り置きて待たむ

 万葉集の11巻に収められている歌ですが、前半の高貴な人を思わす男性が通ってき、忘れ物をした。という歌に対して、後半では、明日の夜も来ようと言うのであれば、待ちましょうと女性側の気持ちを、解釈するように歌っています。
しかし、この形式の和歌も、平安時代に入る頃に急速に廃れていき、五七五七七形式の和歌をお互いに送り合う文化へと変化していきます。


 時代は下り、鎌倉時代に入ると、連歌と呼ばれる形式の歌が流行する様になりました。
連歌で最も有名なのが、江戸時代中期、赤穂浪士の大高源吾が宝井其角との間で交わした討ち入り前日の一歌『年の瀬や水の流れと人の身はあした待たるるその宝船』です。
物語では、討ち入りを翌日に控えた13日、両国橋の上でかつて門下であった大高源吾を宝井其角が見つけ、風流の道をお忘れでないならと投げかけたのが発句になる『年の瀬や水の流れと人の身は』となります。これに対し、大高源吾が『あした待たるるその宝船』と付句を返しています。
その後に、其角が源吾の付句「あした待たるるその宝船」の意味を理解し、吉良邸討ち入りを察したという、忠臣蔵屈指の名場面に登場しています。

 またこの歌は、装飾技法的にも優れており、年の瀬の「瀬」に対し、「水の流れ」と付句の「宝船」が縁語となっています。他に、「年の瀬や水の流れと」が序詞となり「人の身は」を導いています。この歌が、橋の上で出会って、即興で出て来たとは信じがたいレベルです。
それはさておき、このように、二人で発句に対し付句で返し、それを和歌として成立させるのが連歌なのです。
そして、この発句部分が、後に独自に発展したものが、俳句となっていくのです。

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