アットタウンWEBマガジン

津山市、地蔵院の住職にお話を聞いた。

 津山市小田中にある天台宗の寺院『愛宕山 地蔵院』、神式の権現作りの社殿が本堂として利用されているなど、全国でも見ることのない様式で、神仏習合時代の文化を色濃く残した寺院となっている。

これは鶴山の乾の方角にある高所がこの地になる為に、松平家が津山藩主として移封された際に、元々、寺院があったこの地のすぐ隣に創建したのだそうだ。
今回は、その地蔵院の住職、「清田玲寂」さんに、色々な話を聴けた。





 このお寺の特徴は東照宮が祀られており、さらには社殿が本堂として、今も使われていることだ。祭事においても、東照宮である事から神仏の3宗が、一緒に祀りを行うなど珍しい。また、谷崎潤一郎の疎開地とされているが、住職によると、厳密には当時あった真言宗の隣寺にあたるそうだ。





 話があっちこっちに飛ぶ記事になるが、まず、現在本堂となっている権現造の建築物から取り上げる。
神社の社殿を、現在でも本堂として使用している寺院は、他には存在しないのではないかという。また、その本堂の壁は、ケヤキの一枚板を使ってあるのだ。このケヤキの壁板に関してはこんな話がある。




以前、社寺建築を学ぶため留学しているスイス人が、研究論文で権現造を取り上げ、全国の東照宮を調べて回っていたことがあったという。当然、当寺の本堂も調べに寄ったのだが、その際に、そのスイス人が真っ暗になった本堂の中で、ローソクを灯しててくれるように依頼してきた。




清田さんが言われるがままにロウソクに火をつけ、灯明をあげると、ゆらゆらと揺れる灯りに、壁の経年により木が痩せ、木目が深くなった板に影が落ち、ローソクの灯りに連動して、ゆらゆらと影が変化する幻想的な空間が現れたのだ。
自らが住職を務める寺院の、思わぬ魅力を外国人に教えてもらったのだ。




 次に、祭事の話になるが、明治の神仏分離以降、神仏習合の祭りというものがなくなっている。仮に神仏習合が残っている所でも、神式、仏式で、時間を分けて、それぞれに行う、仮に宗派が異なれば、それも、それぞれ時間を分けて、別に行っている例が多い。それが、ここでは実に珍しい形態で祭事が行われているのだ。





3宗での祭事では、神式の東照宮の神職と、松平家の菩提寺の宗派である浄土宗の僧侶、そして天台宗の地蔵院の住職である『清田』さんが、同所同時に執り行われ、神職が詔を上げた後、浄土宗の念仏が上げられ、その合間に読経が行われるといった、入れ替わり立ち代わりで祭事が催されるのだという。





 アットタウンでは、ライターの感情を一切排除して、聞いた話を伝えるようにしてきたが、面白い話が聞けたので、ちょっと、ここで例外を作ろうと思う。
取材では、過去にも様々な寺院の僧侶に話を聞いてきたが、実はライターの個人的な興味から、宗教の教えについて聞いている。





今回の清田さんにも、宗教の教えについて質問をしたのだが、その中で、目から鱗が落ちるような話をしてもらえたので、ここで紹介したいと思う。
宗教の教えに関しても、様々な話を聞く中で必ず聞いているのが『空』(くう)についての解釈だ。




一説には、仏教において『空』は、仏教の本質だともいわれる。
ある宗派では、空を「有ってないもの、そこに存在しているのだけども、目に見えず触れることもできない。臭いを感じることもできないもの」と教えてくれた。また、ある宗派では、「無我と同義語で縁起である。全てのものは因縁によって在り得ており、もの単体では成立しない」というもの。それぞれの宗派で、それぞれの解釈があり、様々な解釈を聴き、自らの中で、それを考え、組み立てることが楽しい。
しかし清田さんは、空の解釈について、「『空』が『そら』でもかまわないのではないですか」というのだ。




受け取る人によって、どう感じるかは、その時の人が置かれている状況でも変わってくる。
釈迦が、どのような意図で『空』を解いたかを考えることも重要かもしれないが、その人それぞれにとって『空』をどう受け取ったら自らの向上につながるのかという、目線で考えてもいいのではないかというのである。
さらに、清田さんは、南無についても似たようなことが言えるというのだ。




南無はサンスクリット語で、日本語に直訳すると、帰命、帰依などとなる。しかし、漢字をあてた時に南無(南にない)という字を当てたことにより、北、東、西、現在地には有るということになる。サンスクリット語を中国語に訳さず、そのまま単純に当て字にしたことにより、できる解釈だ。もしかすると、先人は、様々な解釈ができるように、そのことを意図的に行っていたのかもしれないというのだ。




とここまで書いて、このまま書き続けると紙面に収まらないこととなるので、尻切れトンボではあるが、話をまとめに入ることにする。
続きは、地蔵院にお詣りした際に、住職に色々尋ねてもらいたい。

 最後に、寺院もお詣りした人に対して、エンターテイメントとして様々なものを、提供することを考える必要があるのではという話で盛り上がったことを書き加えて、尻切れトンボではあるが、この記事を締めたい。

関連する情報

人気記事

新着記事