田町奴踊り保存会 事務局 日原健介さん
津山城下でも、江戸時代には武家屋敷が立ち並んでいた地域の田町。
城下の西側にあたる、その歴史深い地域に今回紹介する『田町奴踊り保存会』の本部がある。総勢は約60名にもなる大きな所帯だ。
今回は、その『田町奴踊り保存会』事務局の日原健介さんに話を聞いた。
ここで田町奴踊りや、そもそもの『奴』について説明する。
津山の人は、知っている人も多いかもしれないが、津山市域の鎮守社である徳森神社の大祭に奴姿をして、奴踊りを練り歩いている。
『奴』とは、もともと武家屋敷に奉公していた中間(ちゅうげん)と呼ばれる人達で、普段は屋敷で下働きをし、参勤交代などでは主人の荷物を運ぶなどをした人達のことだ。
それも江戸時代でも世の中が安定し平和な時代になると、渡り中間と呼ばれ、参勤交代の荷物を持つことを専門にする人などが現れる。
奴はなぜか庶民に人気があり『奴だこ』などにもなっている。実は「冷ややっこ」の語源だったりもする。
話は戻って、「田町奴踊り」の起源について書くと、昭和4年に津山市が発足した。その際の祝賀行事に、津山城下の町内会は、それぞれ『だんじり』を出したが、田町には『だんじり』はない。
市内中心地にある田町が、何もしないわけにはいかなかったのだろう。思案の挙句に大名行列を模した行列を繰り出したそうだ。
その後、戦後になり、大名行列から、奴の部分を切り出して、踊りを付けたものが徳森神社の大祭で披露された。
それが今の田町奴踊りの起源だそうだ。
徳森神社の祭りでは、午前9時から始まる練り歩きは、午前中に藺田川までの東側を回り、徳森神社に入り、奴通りまで帰ってくると、町内の炊き出しによる昼食を挟んで、午後に宮川までの西側を回る。
現在は、『大人奴」と『こども奴』を隔年で行っている。
大人は大人の良さ、こどもはこどものかわいらしさがあり、どちらも人気だそうだ。
また、祭り当日になる前に、隔日で練習を行う。2週間で7回というハイペースの練習で、踊りを揃える。
この揃った踊りが、見どころだということなので、練習も当然かなり熱がこもったものになるのだそうだ。
みんなが揃った踊りを見せて、観客に喜んでもらうことがやりがいだという。
「大きな拍手が起こった時は、嬉しいですよ」と教えてくれた。
揃いの奴羽織に、奴さんメイクを施した姿が特徴の奴踊りだが、この奴メイクも、かなり時間がかかるという。
朝早くから、地域の皆さんが、総出でメイクなどを手伝ってくれるのだそうだ。
また、炊き出しだけでなく、奴羽織の洗い張りや道具類の修理なども、お金がかかる。
そこは老人会や、女性陣を含めての協力は欠かせない。
田町の各町内会の、予算や人員の全面バックアップで、行われているという。
そんな保存会の問題点は、絶対的な知名度と、会員の減少や高齢化だそうだ。
奴踊りは、奴さん24名、武士が12名の合計36名で行われる。それに様々な裏方がつき、総勢60名でも、充分な人員数とは言えないらしい。
しかし、人口減や少子化の影響もあり、なかなか人が集まらないのだそうだ。
特に『こども奴』は深刻で、本来は小学生で行っていたものを、最近は中学生も入って行っているという。
もしかすると、近いうちに、24人に足りない人数で行うことになるかも知れないという。
そのようなこともあり、元々、田町在住の人だけで行われていた奴踊りも、今では田町以外の人が参加できるようになっている。
実は、日原さんも山下の在住で、田町ではないそうだ。
田町以外の参加者第一号が日原さんだという。住んでいる山下町に青壮年会が組織されていなかった関係から、隣町の田町青壮年会で活動したのがキッカケで、人が足りなかったときに、奴踊り保存会に誘われたというのだ。
そんな日原さんが、今では役員として事務局に入っている。
田町に住んでいなくても、徳森神社の氏子でなくても、保存会は歓迎してくれるそうなので、奴踊りに興味がある人は、気軽に問い合わせをしてみてはどうだろうか。
こどもでも、大人が送り迎えができるのなら、大歓迎だそうだ。
将来は、田町奴に出るために、都会に出た人がUターンで帰ってくるくらいになれるように、知名度アップと保存会の活動継続に、力を注いでいきたいという。
そのためにSNSもFacebookだけだったものを、Youtubeを使ったりInstagramを使ったり、幅を広げてPRを始めた。
また、昨年から津山城で行われる桜まつりにも、出演することとしたのだそうだ。
今回のアットタウンの取材を受けてもらったのも、その一環だと思う。
『田町奴保存会』が城下町津山を代表する伝統に育つことを念願して記事を締めくくりたい。