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津山市在住『二科展会友』永禮直義(ながれ なおよし)さん

 津山在住で、二科展での入選、特選を45年以上続け、25年前には会友に推挙され現在でも会友として創作活動をしている方がいる。津山でも知る人が少なく、作品を見たこともない人の方が圧倒的に多いだろう。
それが永禮直義(ながれ なおよし)さんだ。今でも会友として二科展への出品を続けている。
二科展に出し始めたのは、自由度が高いため、それまでの常識に拘らない、新しい芸術を支援していることからだ。




 永禮さんは落合出身、油絵を書き始めたのは、大阪工大に通っていた20歳の時。
当時住んでいる近くに、画材屋があった。幼い頃から絵を描くのが大好きで、子ども展で金賞や特選を数多く受賞するなど得意だったため、いつしか店に立ち寄るようになった。
ある時、筆一本と3号のキャンパス、油絵の具を6色だけと筆洗い液を購入し、絵を描き始める。
全て独学で、というより、最初は何も知らないまま、絵を描き始めたという。
「最初はね~、何も知らずに筆洗い液で絵の具を延ばしていたんですわ」と笑いながら教えてくれた。
聞くと、油絵用具の油は、『絵を描くときに絵の具を延ばすために使う油』と、『作品の保護に使う油』、そして『筆を洗ったり用具掃除をする油』は全く違う特徴を持っているのだそうだ。




 そんな永禮さんも、1975年の26歳の時に、二科展に初入選をする。
そして、翌々年には中部二科展に出品して、初入選することとなる。
この時の画題は『無間地獄』。画題の意図としては、無間地獄とは、人間の生活中や考え方に存在する地獄を描いたもので、人間が生きる限り永遠に続く地獄が存在する。
それを絵画として表現した作品だという。
永禮さんにとっても「絵を描いている時が、地獄なのではないか。この無間地獄があるからこそ絵を描き続けている」というものを表現しようとしたのが、この作品だという。




 その後、二科展、中部二科展ともに、連続で入選を重ね、1990年には、フランスの人気作家サージ・マルクスが次世代のアーティストを支援するために設立した『サージマルクス賞』を受賞、翌年にも『サージマルクス大賞展奨励賞』を受賞するなどの評価を受け、1996年には、47歳で二科展の特選を果たし、その年の岡山県芸術奨励賞も受賞した。
二科展を中心に、着実に評価を上げていった永禮さんだが、彼の作品を、実際に目にできる機会はあまりないのだ。





というのも、展示会出品や個展開催などは、一部を除いて原則的に行っていないからだ。
また販売や寄贈なども行っていないため、どこに行けば作品を見られるのかはっきりした場所はない。
実は、個展開催の誘いは、かなり多くあるのだそうだ。しかし、他人の評価をあまり気にしないこと、見てもらうという事に興味が薄いことと、元来の面倒くさがりやの性格が相まって、断り続けている。
展示会への出品も、会友である二科展だけで充分だと思っているのだそうだ。




しかし確実に、永禮さんの作品を見ることが出来る所が二つある。そのうちの一つが遠方だが東京の二科展だ。ここだと毎年会友として出品しているため、必ず見ることができる。そしてもう一つが、山陽新聞社会事業団が主催しているチャリティー展となる。こちらは今年も既に作品を送ったというので、岡山市まで足を運べば、見ることが出来るだろう。
今回の取材も、「自分が個人として、描きたいから描いているという感じなので、人に知ってもらおうという気持ちは、全くないんですよ」というのを、人を介してお願いして、話を聞くことが出来た。




知人以外の知らない人に訪ねてこられても面倒なのと、どのように対応していいのか分からない為、現住所などの具体的な情報を載せないのが条件での取材受け入れだ。
ただ、描くことについては、面倒という気持ちは一切わかないのだという。それどころか、体調が悪く倦怠感があったり、発熱していても、絵を描きはじめる。「ただ書くことが好きだから」というのが、理由なのだそうだ。




 何事をするにも『好き』が一番の才能。
二科展出品者を見ても、感性の素晴らしい絵を出品する人は多くいるが、何度かで出品がなくなり、聞いてみると描くことを止めているという人が多いのだそうだ。
只々、描くことが好きな『永禮さん』に話を聞くことが出来たことに感謝したい。
そして最後に、いつの日か、永禮さんの気が変わって個展が開催されたらとの、私の勝手な願望で、記事を締めくくりたい。

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