津山市の院庄インターチェンジのほど近くに鎮座する後醍醐天皇と児島高徳を主祭神とした1869年(明治2年)創建の新しい神社です。
南朝の忠臣として讃えられ、後醍醐天皇に対して忠勤を励み、南北朝分裂後も一貫して南朝側に仕えた児島高徳が隠岐流刑の際に奪還を試みるも失敗した伝説地として国指定史跡となっています。
一帯は「院庄館跡」で、鎌倉時代から室町時代にかけての美作守護職の居館の跡と推定されています。
今でも、館跡の東・西・北の三方には総延長500mほどの現存土塁が残っており、発掘調査では井戸や柱の基礎が見つかっています。
史跡指定の一因でもある児島高徳とはどのような人物なのか、後醍醐天皇と共に作楽神社に祀られていますが、「太平記の筆者である児島法師ではないかと言われている。」「太平記の主人公として南朝方で活躍した武将。」くらいの認識だと思います。
さらに「太平記が史実としてどれだけ信頼できるか、児島高徳の存在を疑う人も多い。」とも言われており、太平洋戦争を境として、児島高徳を取り上げている書籍の出版もほとんどなくなっています。
出生については様々あり、備前とも備中とも播磨とも言われ、「参考太平記」によれば和田備後守範長の子として生まれ三宅児島三郎・今木三郎とも号し、新羅王子天日槍の末裔となっています。
しかし、鳥羽上皇の第三子、頼仁親王の第四世、頼宴大僧正(父)と佐々木盛綱の女、信夫(母)との説もあり、生年は不詳です。
また『洞院公定公記』に「文中3=応安7 (74) 年4月 28~29日頃死んだ」と記されていますが没年も様々で、没したと伝わる場所も多くあり全国に何か所か墓があるが、決定的なものはどこにもありません。
生年、居住地、没地などが不詳ではっきりした記録が残っていないこと、南朝の論功行賞の記録には高徳の名前が一度も無いことが存在否定説につながっているようです。
太平記の中で児島が関わる名場面として、壱岐護送の後醍醐天皇を奪還する作戦が詳細に描かれています。
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後醍醐が隠岐へ流されるのを知った高徳は、同志200騎を糾合して後醍醐を奪還しようと図っていた。
彼らは備前と播磨の境である舟坂山で決行する予定であったが、佐々木判官率いる500騎の護送側は不穏な空気を察したのか備前に入る以前に山陰へ道を転じた。
そこで高徳らはそれを追って美作の杉坂へ趣いたが、後醍醐らは既にその先の院庄まで達していた。
高徳の同志らはこの時点で断念して去っていったが、高徳は諦めきれず単身で院庄まで到達し後醍醐らの宿所に潜伏。
しかし堅固な守りを目のあたりにして本来の目的を果たすことはできない悟り、せめて後醍醐に自らの志だけは知らせたいと考えた。
見回すと桜の大木が聳え立っていたため、高徳はその幹を刀で削り取ってそこに「天莫空勾践 時非無范蠡」(天勾践を空しうする莫れ 時に范蠡無きにしも非ず)と大書して立ち去った。
中国の春秋時代、越王勾践が宿敵・呉王夫差に敗れ下僕にされると言う屈辱を味わったが、名臣范蠡の補佐もあって呉を滅ぼし雪辱を果たしたという有名な故事に倣い、今は敗れて囚われの身となった後醍醐にも未だ忠誠を誓う臣がいる事を訴えたのである。
翌朝、後醍醐と護送者の一行が出立しようとした際に高徳が詩句を書きつけた桜木を見つけた。
警護の兵達は書かれている意味が分からず首を傾げるばかりであったが、後醍醐はその意を察して心慰められ微笑んだと「太平記」は伝えている。
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太平記の余りにも有名な一説の舞台になっているのが、「院庄館」今の作楽神社なのです。
建武中興崩壊後も南朝方として戦い,正平7=文和1 (52) 年まで、新田軍に加わり奮戦したと『太平記』には記されています。
現在の作楽神社でも、太平記の名場面に出てくる桜に習い200本の桜が植えられ、春には満開の花びらが、参拝した人の目を楽しませてくれます。
「太平記」を片手に春の作楽神社を訪れてみてはいかがでしょう。
津山市神戸433
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