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あかけんの津山歴史よもやま話(7) 津山城 石垣の積み方の謎(後編)

前回、津山城石垣の積み方の謎(前編)として、城内に様々な積み方の石垣が存在すること、高所である本丸周辺には古い積み方の石垣、入城ゲート・三の丸周辺には逆に新しい積み方の石垣が見られることなどを述べた。本編では、なぜこういった傾向が見られるのかについて見てみたいと思う。


 津山城は森藩初代藩主である森忠政によって1604年~1616年の12年もの歳月をかけて築城されたものである。その12年の間に石垣の積み方が技術の進歩によって変遷があることが指摘されている。

森忠政はこの12年間の城造りの際に全国各地の城造りに赴いている。

そこで得た城造り、石垣の構築方法を津山城普請に活用したものと考えられるのである。




一番古い野面積みの石垣は本丸周辺に見られ、打ち込み接は概ね二の丸・三の丸、切り込み接は三の丸周辺に見られるという傾向がある。ということは、城造りは高所である本丸から下方に向けて行いその時期の積み方をもつ石垣を構築していったのではないかと考えられるのである。




築城初期の頃の石垣の積み方は野面積み。ほとんど加工をしない自然石を積み上げたものであるが、この積み方が見られるのは主に本丸東端周辺に見られるが、それは築城初期の慶長頃にはこの周辺で普請が行われことを示すものと思われる。

石垣からそういった変遷を読み取ることができるという、津山城跡はまさに「石垣の博物館」といったところであろう。


 全国的にも注目されている津山のシンボルである津山城跡、その石垣には長い歴史がある。それらを構成する一つ一つの石には先人たちの城造りへの熱い思いが込められているのかもしれない。
(赤坂健太郎)

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