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勝山城(高田城)


1340年室町時代初期、三浦貞宗が美作国高田荘の領主となった際に、現在の勝山 (真庭市)の如意山と勝山(太鼓山)に築城したとされています。

しかし、史料的な裏付けがなく、中世城郭の特徴もなく、信憑性が問われています。

江戸時代初期に書かれた「高田城主次第」によれば、その筆頭には戦国時代初期の武将である三浦貞連が記されています。

その時期に美作国西部で貞連が勢力を拡大しており、貞連が築城した可能性が高いと考えられています。

麓は、北から流れてくる旭川が大きく東に曲がる地点で、これを天然の堀として防備に充ててあり、標高322m、比高140mの急峻な山と相まって、主要部分が現存していなくても堅牢な山城であったことは容易に想像できます

 

1544年に、貞連の孫・貞久は尼子晴久勢の宇山久信に攻めらていますが、城にこもり退けています。

1548年に貞久が死亡し息子の貞勝に党首が代わる機に乗じて、宇山久信に再び攻め落城しています。

しかし、毛利氏が勢力を伸ばし始めた1559年、貞勝は尼子氏が毛利元就に攻められている隙を衝いて高田城を奪い返しました。

 

尼子氏に代わって毛利氏が中国地方に台頭し、565年備中松山城主三村家親は毛利氏の配下となり高田城を攻めています。

1ヶ月の攻城戦で城は落ち、貞勝は自刃して果てました。

この時、落ち延びた貞勝の妻が後に円融院と称し宇喜多直家の妻となり秀家を生んでいます。

落ち延びた際に伴った桃寿丸は後年の1584年京都で地震に遭い死去したと伝えられています。


1566年宇喜多直家によって三村家親が殺害されると、三浦家臣団は貞久の末弟・貞盛を擁立して高田城の奪還を果たしますが、2年後の1568年に再び毛利軍によって攻められた際に、落城し貞盛も討ち死にしました。

しかし三浦氏による城奪還戦はこの後も続き、貞勝の弟・貞広を大将に城を攻め続けました。


所在地: 真庭市勝山
(ライティング:星護 禄胤)

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