小倉百人一首といえば、正月などの行事としての『かるた』を想像する人が多いと思いますが、まずは、本来の姿である『秀歌撰』としての小倉百人一首について書いていきます。
そもそも、この百人一首が、どのような経緯で選ばれることになったのか、なぜ小倉百人一首なのかといったあたりから説明します。
選者は、有名な歌人『藤原定家』です。その定家の息子の義父にあたる宇都宮入道頼綱が嵯峨に小倉山荘(時雨亭)を建てるにあたり、屏風や襖に貼る色紙を、定家に依頼したのが、この百人一首となるのです。
依頼を受けた定家は、勅撰和歌集の中から一人一首で百人を選んだのですが、この時は、後鳥羽、順徳両帝の歌がなく、代わりの三人の歌が入って合計百一人であったと伝わっており、後日、為家によって補訂されたとされるのが、現在の百人一首です。
定家が百人一首を選定したと伝わる時雨亭は伝承地は嵯峨・小倉山界隈に三ヶ所あり、有力とされているのが、小倉山の裾から中腹に位置する常寂光寺の近隣にある厭離庵だと伝わっています。
厭離庵は世をきらう人の庵として、そして定家ゆかりの尼寺として、今も現存しています。
小倉百人一首は「古今集」や「新古今集」などの「勅撰和歌集」の中から選ばれた歌となっています。「勅撰和歌集」は、時の天皇の命で編纂された和歌集のことで、21の和歌集があります。
その中の10の「勅撰和歌集」から選ばれています。
内訳は以下の通りです。
古今集 ……… 24首
後撰集 ……… 7首
拾遺集 ……… 11首
後拾遺集 …… 14首
金葉集 ……… 5首
詩花集 ……… 5首
千載集 ……… 14首
新古今集 …… 14首
新勅撰集 …… 4首
続後勅撰集 … 2首
そして続いて「かるた」遊びの百人一首について、カルタの始まりは平安時代に遊ばれていた「貝合わせ」だと言われています。「貝合わせ」は、何組かの二枚貝をふたつに分け、元通り合うものを探す遊びです。
それが宮廷では、貝に歌や絵を書いたもので遊ぶようになります。
描いた絵を絵合わせをする「貝おおい」という遊びがそれです。さらに、それが進歩して、上の句、下の句ともに100枚の貝があり、下の句の札を並べ上の句を詠んで下の句を取る「歌貝」という、現在の「かるた」に近い遊び方に発展します。
室町時代後半なると、百人一首が「かるた」として遊び始められます。
宮中や大大名の大奥などで行われていましたが、この時代の「かるた」は、まだ庶民にはなじみが薄いものでした。
それが、江戸時代に入り、木版画の発展などにより、庶民の中に徐々に広まって、「民用小倉百人一首」が出版される元禄時代から一般庶民の間にも広まるようになりました。