流觴曲水(曲水の宴)や披講会などで、よく披露される白拍子。
和歌などとセットのような白拍子ですが、実は白拍子の舞がどんなものか、はっきりしていません。
関心の高い人は、「でも『静御前の舞』は白拍子では?」と思う人も多いでしょう。
ここで舞われている白拍子は、申楽や能の洋式となっています。
この舞が本当に白拍子なのかどうか、誰にも分からないのです。
白拍子は、伊勢平氏などの武家が力を持ち始めた1100年代中頃から流行し、南北朝が統一され騒乱が収まる頃には、次第と申楽に変化していったと考えられています。
そのため、前出の『静御前の舞』は申楽に近い様式で舞われているのだと思います。
それでは、白拍子ってどのようなのものだったのか?
Wikipediaでは
“主に男装の遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞ったものを指すが、男性の白拍子もいた”とある。
さらに衣装については、
“「初めは水干を身につけ、立烏帽子をかぶり、白鞘巻をさして舞ったので、男舞と呼んだ。途中で烏帽子、刀を除けて、水干だけを用いるようになって白拍子と名付けられた。」”
このことは、多く絵が残っていると共に『平家物語』延慶本でも同様に説明されています。
ただ、白拍子の舞については詳しいことは分からないままなので、なんとか有力な情報を得ようと、WEB検索をしていたところ『白拍子研究所』というサイトを見付けました。
そこには、以下のような説明がありました。
“室町時代初期には衰退してしまった白拍子ですが、わずかに残る史料から芸態を想像することができます。
白拍子の芸の核は、その名の通りリズムにあり、リズムに合わせ歌い舞い、拍子を踏み回るものであるようです。面白いことに白拍子の芸は「歌ふ」「舞ふ」とは言わず「数ふ」という動詞が使われます。何かを数えるような芸能だったのでしょうか。”
やはり、こちらでも正しいことは分かりません。さらに『「歌ふ」「舞ふ」とは言わず「数ふ」という動詞が使われます。』と面白いことが書いてありますが、より疑問が深まります。
今、白拍子として舞われているものと、往年の白拍子がどう違うのか。
本当は静御前がどんな舞を舞ったのか。
何かと興味は深まるばかりです。
絵と文章以外では、伝承で残すしか次世代に残って行かない時代の風俗文化を、往年を想像する楽しさを感じながら、北野天満宮の流觴曲水の映像を見ながら、この文を書いています。