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岩屋城

津山市街から、国道181号線を真庭方面に進むと岩屋城の案内看板が見えてきます。
案内に従い北側へ曲がり、岩屋川沿いを数分進むと登城口の駐車場に着きます。
登城口辺りからは、比高250mと急峻な山が目前に高くそびえて見えます。

駐車場から谷になっている長い登り坂を進む両脇は切岸の跡が状態良く残り、綺麗な段郭になっています。
この辺りが、慈悲門寺下の砦とよばれる遺構となっており、下段の郭からの急峻な切岸や規模から岩屋城の堅牢さが良く分かります。
慈悲門寺の施設や、防備施設が設けられていたと考えられています。
しばらく登った所にある岩屋山慈悲門寺跡は、円珍(814~891)の開基との伝承が残っており、慈悲門寺の跡があります。
ここまでが慈悲門寺の砦群であったらしく、この先はしばらく遺構はありません。

そのまま、登城道を尾根下の脇を沿うように進むと、山王宮との分岐点に出ます。
右に行くと奥に山王様を祀った山王宮の後に出ます。
そこから左にしばらく登っていくとやっと大手門の所に出ることができます。

大手門はぐるっと尾根上の郭に囲まれた窪地の入口にあたります。
少し奥に水門跡があり、さらに龍神池があります。
龍神池は、築城の際に山名氏の本拠である伯耆国赤松池にならい、池をつくり祭神を城の鎮守として祀ったと伝えられており、この神龍池と池の後にある井戸の豊富な水が、堅牢な岩屋城の籠城戦を支えました。

池の前で登城道は左右に分かれます。
右に向かうと、三の丸その西に二の丸にたどり着きます。
案内の通り左に馬場と呼ばれている郭に向かいます。




途中、南堀切があり、ぶっつりと切り取られた堀切は、かなり急峻です。
この辺りには石塁や土塁もあり、見所でもあります。
そのまま登城道を登ると東西108メートル、南北20メートルと大きく削平され最大の曲輪となっている馬場に出ます。
馬場から南に伸びる尾根には、小分城・石橋上砦・椿ヶ峪砦といった曲輪群が設けられ、先の尾根には堀切が掘られています。

南側曲輪群の逆を少し行くと本丸にでます。
本丸は山頂に位置する主郭で、馬場の約半分の規模の曲輪になります。
本丸北側は「落し雪隠」と呼ばれる断崖ですが、天正九年(1581) 毛利方は決死隊を選び、風雨の日に落し雪隠を登って城内に突入し、これが元で落城したと言われています。

本丸を後に、二の丸へ向う途中に堀切があり、その先が二の丸になります。
二の丸も細長い郭で、先端に深さ10mほどもある大堀切があります。
二の丸を降りると、二の丸と三の丸の間の大堀切に出ます。ここを現在、城址管理用の道路が通っています。ここから少し登っていった所が三の丸になり、二の丸と同程度の大きさの曲輪があります。
三の丸は地元の人に「さんのうまる」と呼ばれています。




城址管理用の道を進むと、最大の見どころでもある三ノ丸の東側の「てのくぼり」と呼ばれる12条の大規模な畝状竪堀が設けられている場所に出ます。
この畝状竪堀のある部分だけが比較的緩やかな傾斜になっているため、防御力を強化するために畝状竪堀が掘られたようです。


岩屋城は室町時代中期の1441年、6代将軍足利義教を暗殺した赤松満祐を討伐した(嘉吉の変)山名一族の山名教清が石見に続き美作国守護に任じられ際に築城されました。

1467年教清の息子、政清の代に勃発した応仁の乱の際、山名宗全に従い上洛した虚に乗じて播磨の赤松政則が岩屋城を攻め落城させ、さらに播磨・美作・備前を武力で奪還し美作国守護を取り戻し中村則久が入城しました。

1520年則久は赤松義村に対して謀反を起こした三石城主・浦上村宗に味方して裏切り、美作・岩屋城を奪取して籠城しました。
義村は、御着城主・小寺則職を大将にして討伐軍を派遣しますが、浦上家の重臣・宇喜多能家の援助を受けて要害の美作・岩屋城は容易に落ちず約200日籠城します。
年が変わって中村則久は、浦上村宗と連携して攻勢に出ると、小寺則職らを返り討ちにし、小寺祐職の父子が討死するなど、赤松勢は大敗しました。

以降、しばらく中村氏支配が続きますが、1531年大物崩れで浦上村宗が討死すると形勢が変わり、尼子晴久の後ろ盾を得た大河原貞尚に攻め込まれ衰退を余儀なくされます。
1544年には直接美作に侵攻た尼子氏の攻勢に降伏、尼子氏より目付けとして芦田秀家を送り込まれました。

その後、1568には独立を目論む正家は尼子を裏切り、さらに則治を殺害し、勢力を伸ばしていた宇喜多直家と手を結びます。
しかし、1574年、浦上宗景から独立したい沼城主・宇喜多直家は、岩屋城を配下の田貞佐と花房職秀に奇襲させ、わずか一日で岩屋城は陥落し芦田正家は討たれました。
差の際に岩屋城には宇喜多の家臣・浜口家職が入城しています。

1575年より美作三浦氏と、宇喜多家の岩屋衆との抗争が激化します。
三浦貞広の家臣、牧清冬は牧左馬助は宇喜多家の花房職秀・沼本房家らが守備する多田山の陣を占拠するなど攻勢に出ますが、宇喜多直家は毛利家に助けを求めます。
備中兵乱を鎮圧した毛利勢は三浦領に侵攻し、破竹の勢いで侵攻すると、宇喜多直家が三浦氏を支援していた浦上宗景の備前・天神山城が落とし、貞広も毛利家に降伏しました。
1579年、宇喜多直家が織田家に寝返ると、岩屋城も毛利家の標的となります。

1581年、毛利勢の葛下城主・中村頼宗(なかむら-よりむね)が、岩屋城に少数精鋭部隊を送り込みます。
暴風雨の夜に城へと接近すると、北側の急峻な崖である「落し雪隠」をよじ登って本丸へとなだれ込み中村勢は浜口家職を追いやり、美作・岩屋城を奪取しました。
この戦功により、毛利輝元は中村頼宗を美作・岩屋城主としています。

天正十年(1582) 備中高松城の開城により両氏が和睦すると、美作は宇喜多氏の領土となりました。

しかし、中村頼宗は最後まで立ち退きに応じなかったため、宇喜多秀家は1584年3月に、花房職之ら2万の大軍にて、岩屋城を攻撃させました。
花房職秀は、多数の付城を設け、岡家利・長船貞親・戸川秀安・江原親次らが完全包囲しますが、このときも、頼宗は楢崎元兼らの支援を得て4ヶ月も籠城を頑張ります。
しかし、安国寺恵瓊らの説得で、矢筈城主の草刈重継が城を明け渡しに合意すると、頼宗も足利義昭の和睦の仲介を得て、岩屋城を明け渡しました。

その後、岩屋城には、宇喜多家臣の長船越中守が入城しましたが、1590年 野火により城が焼失すると、再建されることなく約150年にわたる歴史に幕を下ろしました。

このように岩屋城は、度重なる攻防の中にあって幾度の落城を繰り返し、その都度城主が入れ替わる凄まじい歴史を辿っています。

それは圧倒的な支配力を持つ勢力が存在しなかった美作地域だからこそ、躍動的な歴史が描かれたのです。


(星護禄胤)

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