疲れたと言(ご)ちつつ今日も書斎へと
夫の遺愛のソファーに横たふ
河野 澄江
●「疲れたと言(ご)ちつつ」は「疲れた」と独り言(ごと)いいつつの略である。普通ひとに物を言う時は「言(ご)ち」とは言わないが、独り言の場合「言(ご)つ」とか「言(ご)ち」を使うので、ここの「独り」の省略は巧くこの歌に活かされている。
筆者が少し疑問なのは、「疲れたと独り言ちつつ」の独り(三音)を省略したのなら「疲れたと今日も言(ご)ちつつ書斎へと」となぜされなかったのか? 一首の流れとしてはその方がスムーズに下の句に繋がっていくと思えるのだが、そこは作者が今日も亡きご主人がいつも大切に使っていて、そのご主人も時々「疲れた」と言って横になられていたソファーに気持ちとして今日も重なって居たくてなのか、「今日も言ちつつ」とすると毎日独り言をいっているようで憚られたのか?どちらにせよこの作品は亡きご主人への思慕の深い、情愛に満ちた短歌であることは読み手に強く伝わる。ソファーに横たわりながら今日の出来事などを話されているのである。
この花は亡母(はは)が好みて育てゐし
銀杯草の白さ目に染む
井上 襄子
●銀杯草は耐寒性は強いが暑さには弱く、岡山県内では県北でしかほぼお目にかかれない花だと思われる。この花の名前を見た瞬間に思い出されたのは、南木曽の馬籠宿にある島崎藤村の生家、藤村記念館に咲いていた銀杯草の真っ白な美しい花である。筆者は所属している短歌結社「あさかげ短歌会」の全国大会が、信州諏訪で開かれる年はその道中、自家用車で木曽路を走りよく妻籠宿、馬籠宿、奈良井宿など寄り道して行くのを旅のよすがとしているのだが、藤村記念館に咲いていた銀杯草は本当に美しく、今でも心を惹かれた思いが焼き付いている。
この歌の作者は、亡きお母様が好まれて育てられていた銀杯草を詠まれている。
下の句に簡潔に「銀杯草の白さ目に染む」と表現され、簡潔さが逆に銀杯草の真っ白な美しさを読む側に際立たせているように感じられる。丈の低い花も派手さは無いのだが、なぜか心を惹きつける花である。この花を好まれていたお母様を偲ぶ。
抑揚のない一日の終わるころ
粗挽きの雨八手の葉を打つ
田上 久美子
●都会的なセンスで何気ない日常をうまく切り取って詠まれた一首である。
明治の近代短歌、いわゆる写生短歌が百年以上もてはやされ継承されて来た中から、先の大戦後それまでの印刷物(小説や各新聞まで)がほぼ文語調の文章で統一されていたものが、戦後の復興と自由と共にそれまでの殆どの文章が文語体から口語体に変わって行きながらも、短歌の世界だけは依然、文語調旧仮名遣いの近代短歌を最上級とする短歌結社やその指導者が未だに口語体を拒み続けている事実がある。
しかし、現代の若者たちには旧仮名や文語調といったノスタルジックな面と短歌は別物として捉えている。社会全般、生活そのものが近代短歌の詠われた明治とは全く違ってきているので当然、生活詠や社会詠は変化してくるのが自然である。
この歌の作者は比喩の選び方が半端なく巧みである。「抑揚のない一日」「粗挽きの雨」などは特に説明を必要としない。なるほどと諾(うべな)い、腑に落とす秀歌である。
凡百を踊り狂いし新盆に
念仏思い等覚となる
千葉 二朗
●「凡百(ぼんびゃく)を」はいろいろ、さまざま、かずかずを、の意である。
「等(とう)覚(がく)となる」の等覚とは、仏道修行の悟りを開く五十二の階位の中で一番上の悟りを開いたとされる妙覚とほぼ等しくなった五十一番目であると言い、修業が満ちて智慧・功徳が仏と等しくなった菩薩の最高位であるらしい。『日本大百科全書』
「踊り狂いし」「念仏思い」などから空也念仏の念仏踊りを思い浮かべてしまう。
作者の御父上は昨年の盛夏に亡くなられ、今年新盆を迎えられた時に詠まれた歌である。生前市議会議員として、また地域の多くの方々から信頼を集め、お通夜には政界人らしき人に混じり、多くの子供たちも夜分遅くまで参列していたのを筆者も見てお会いすることは叶わなかったが、「等覚となる」に相応しい方であったのだろうと確信している。凡百の踊り狂いは、この世での様々な多くの善行の事であろうし、「凡百(ぼんびゃく)」と「新盆(にいぼん)」は掛詞として巧みに使われていて良く勉強されている。
今月の短歌
向日葵(ひまはり)も
ぐつたり頭(かうべ)
垂れし午後
残暑見舞ひの
絵手紙届く
矢野 康史
矢野康史さん プロフィール
あさかげ短歌会津山支社代表。全国あさかげ短歌会代表。津山市西苫田公民館と一宮公民館の2カ所で短歌教室を指導している。津山市文化協会副会長。
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