まず大谷は津山駅があり、津山市の観光の目玉とされる「まなびの鉄道館」がある。
南は山が迫って、北は津山線姫新線の線路のところまで南北は短く、東西に長い地域。中央公民館や作陽保育園などの文化教育施設もある。
私はご近所が好きだ。
自然に囲まれ、町にも近い、温かい人たちに地域で育てられた自分自身や子どもたち。
驚くような美しい景色や歴史話があるかもしれない。
もっと近所の事・地域の事を知ってみたいと思い、津山市大谷の中村行夫さんと安尾孟さん、また歴史研究家・和仁隆明さんに同行、案内していただいた。
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(大谷妙見)
妙見大菩薩
妙見さまと言われるが詳しい言い伝えは不明。
石造りの鳥居は、昭和11年3月15日建立の表記あり、妙見大菩薩自体は明治時代に出来たと推察される。
妙見信仰は明治政府によって弾圧されていたため明治時代に創建されたとは思いにくい。元々地域に日蓮宗の寺があったのか。
第二次大戦頃鉱脈を探す活動が行われていたとすれば鉱山師は北極星が天から金属を降らせていたと信じていたので妙見さまが採掘の作業者の信仰の対象になっていたと思われる。
(大谷あんどん岩)
あんどん岩
戦後30年ころまで、大谷から種に抜ける道は日常生活に使われていた。
途中に道を教えるかのような大きな岩がある。
夕暮れ時の道しるべとなったのではないか。
(大谷そうめん流し)
(大谷 そうめん流し後ろの石切場)
そうめん流し・石切場
日和のいいときに武士たちが、自然をめでながら宴をしそうめん流しを楽しんだか。
その下流100メートル位の所に、平坦な谷川床があり、武士たちが休んだところか、または石切時に石工たちの休憩の場となっていたか。
(大谷 武士神社)
武士神社
石組は質の良い意志でできている。
土台もしっかりしているので石切と関係があるのかもしれない。
すべり山(がんこつ山)の下が武士神社なので中世で戦った武士たちの霊を慰めたのか。
がんこつとは、骸骨を表すのか。
又一部説には、けんか谷の事件後、けんか谷に武士の幽霊が出没するという噂が立ち、恐れをなした地元の人たちが祠を祀り武士神社とよんだとされ、大正末期まで切り傷や腫れ物に効き目があると参拝者があったとの話も。
(大谷われ岩)
われ岩様
大谷から種に剥ける道の頂上付近に真っ二つに割れた岩がある。
何かのまじないか? ずっと歩いて行くとわれ岩がある。
(大谷摩利支天道標)
(大谷摩利支天2)
石山寺摩利支天への道として
摩利支天は護身や勝利、開運などをつかさどる仏教の御法神として信仰を集めている。
摩利支天はイノシシの背中に乗っている。当地域には摩利支天までの道標が多く存在する。
(大谷けんか坂1)
(大谷けんか坂2)
けんか坂(けんか場とも言われる)
大谷のほぼ中央にある石山での実際にあったとされる話は、そのつづら坂を見るとその時代を彷彿とさせるもので、やはり大谷は石にまつわる話が多いと実感する。
久米郡誌によると、森忠政が津山藩築城時石材を大谷の石山から調達していた。
当時老臣は数千人ともいわれる人夫の管理をしたいたが、慶長13年10月14日の午前中の監督には小沢彦八と細野佐兵衛が行っており、午後からは各務四郎兵衛が交代となった。午前番の彦八が砂をはじいていた時に、たまたま通りかかった四郎兵衛にあたった、かねて二人は仲が悪かったため、それをきっかけに刃物を持ち出すなどのけんかになり四郎兵衛は左手を切り落とされた。
転げ谷底に落ちた四郎兵衛を追いかけ殺そうとしたところ四郎兵衛は彦八の右手を切り落としついに槍で彦八を殺してしまった。
四郎兵衛の家来が四郎兵衛の「左手」の治療にと持ち帰ったものはなんと、彦八の「右手」だった。
という「手違い」とはまさにこのこと。
などとオチの付く話もあるという。
大谷住民は「羽織百姓」と言われるほどの裕福な村民も多かった。
石切の仕事があったためか、また築城後も城や今でいうインフラの補修などで石の需要が多かった。
皿山村大谷村だったのだが明治34年中国鉄道(明治31年敷設)された3年後、なぜか福岡村大谷村となった。
それも石の恩恵ととっていいのか。
(大谷 お礼)
地元にはきっと、まだまだ興味深いことがたくさんありそうだ。
山の中を歩き色々教えてくださった、中村さん、安尾さん、和仁さん、本当にありがとうございました。
(取材ライティング・武本明波)