美作地域の民芸・工芸
津山横野和紙、箔合紙を継承
津山市上横野は市街地から北へ、美作一宮・中山神社周辺から奥深く谷に入り横野川の清流に沿った紙の里。
横野和紙として有名だが、上田家は初代、上田長吉が津山松平家から御用紙をすくことを拝命され、現在六代目の上田繁男さんが横野和紙の技法を継承してきた。
箔合紙は金沢などで金箔を一枚ずつ挟む紙として有名で、「津山箔合紙」(岡山県知事指定、岡山県郷土伝統的工芸品)でなければならないという。
一万分の一ミリまで延ばした金箔を箔合紙に包むと、いつまでも紙に箔がくっつくことなく湿気が入りにくい特性を持っているからだ。
原料づくりから過酷な作業も
横野和紙の製法は、原料となる三椏(みつまた・ジンチョウゲ科の落葉低木)が黄色く可愛らしい花を付け、その後花や葉が落ちる11月頃から始まる。
「かれこれ50年位、美作市右手から調達している。
鏡野町中谷、美咲町中のものも使います」三椏は、箔合紙のほか紙幣などに使われ平面に平滑性が必要な紙に使われる。
太い枝を蒸し、皮を削ぎ、干す(黒皮干し)そして、水に浸け、黒皮の薄い皮を包丁でへぐり(削ぎ落し)白皮にする工程。
白皮は石灰を入れた釜で煮られ、寒い中、横野川で川晒しその後今では機械を使うが、繊維をほぐすために叩く。
ざっとここまでの工程が「紙すき」までの過酷な下ごしらえだ。
紙すきの面白さ奥深さに気付く
叩いた原料を漉き槽(舟)に入れアオイ科の植物でねり剤のトロロアオイを混ぜ、竹簀を挟んだ桁(木の枠)を操作して紙をすいて、紙床に重ねられ紙板に張り付けて乾燥(箔合紙は陰干しをする)、用途に合わせて裁断し「横野和紙」が仕上がる。
「生まれた時から紙すきをすることは決まっていて、抵抗した時代もあった」過酷でつらい紙づくりの工程、山奥で寒い横野の地で「紙すき」を継ぐのは少年の上田さんには納得いかず悩んだこともあった。
大病も経験し「病気をしたことで精神的に気づきもたくさんあった。まだまだいろんな紙を作ることに挑戦しなくては、紙すきは奥深く、一生紙すきをしていく。
きっと一生かけても完成品はできないと思う」としみじみ話す。
地元はもとより全国の人に伝えたい
地元、津山市立高田小学校の卒業証書は、卒業生本人が紙すきをして作ったものだ。
また各イベントなどでは舟を持っていきワークショップをしている。
これからも地元をはじめ美作地域、国内の多くの人に知ってもらいたいが、現状は日本人はあまり和紙には興味はなく、外国ではとても評価が高い。
和紙の魅力を国内だけではなく、ヨーロッパや北米はもとより全世界に広げていきたいとまだまだ意気盛んだ。
「何年も仕事を続けているうちに、紙のおもしろみや魅力を感じる事ができ始めた。使う人が使いやすい紙だと喜んでくれると力がわいてくる」上田さんは笑うが、その一方、美作地域の人にもっと横野和紙のよさを知ってもらいたいと、熱い思いを語ってくれた。
ゼロになる前に
地元の人が地元のものを知らないことに、驚いたことが何度もある「0(ゼロ)になる前に伝統工芸・民芸を続けていく努力をしなけらばいけない。
そのためには伝統だけではなく、革新、普及が必要」と力を込めた。
『紙すき半世紀』から見えてくるもの
平成29年5月に、ご自身の著による『紙すき半世紀』を上梓した。和紙に印刷したもので、和綴じにしている。
幼いころに母を失ったことから始まり、同じ業種との確執、新しい機械導入や、津山工芸愛好会への入会。
その他、全国和紙展開催、姉妹都市サンタフェを訪れ紙すきを披露するなどの事などを、おもしろおかしく淡々とした語り口で綴っている。
ただ前述した大病をした時の落胆や、驚きをも自身で良い方向にもっていったのはさすがだ。
また、同じ津山市内で竹細工作家として活躍される、白石靖さんとの交流、励ましなどが、大きな力になっていることは言うまでもない。
「紙は私にとっては神様です」上田さんの言葉が心に残る。
(取材ライティング・武本明波)