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城下町津山の文化伝統と美風(良いならわし)の高揚を

愛山東照宮奉賛会(渡部佳郎会長 会員数123人)は6月1日、恒例の愛山東照宮祭典並びに同奉賛会総会を津山市小田中の地蔵院内の同宮で厳かに行った。

愛山東照宮祭典は快晴の下で
毎年同日に行われており、昭和42(1967)年に津山松平藩関係者有志により「愛山東照宮奉賛会」が結成され、ご縁ある神職や住職、松平家ならびに地元の神仏一体で行われる祭典は全国でもめずらしい。




当日は同会会員ら約50人が参列し、拝殿で6社寺(瓜生神社、大美禰神社、総社宮、浄土宗・泰安寺、浄土宗・成道寺、天台宗地蔵院)の神社神職がまず修祓をし、各寺の住職が酒水をし、大祓、祝詞、読経、般若心経斉唱などを行ったのち、会員全員で隣接する津山藩最後の藩主・松平慶倫らを祀る「愛山廟」に全員で参拝した。




名誉会員で松平家の末裔、松平康さんの代理で出席した、松平朗さん(東京都)は「先祖のご供養をいただき、私自身も供養の気持ちが高まってきました。
奉賛会の方たちにはお世話になりお礼の気持ちは言い表せないほどです。
毎年6月1日と決まっているので、楽しみに来させていただいています」と暑い中、お参りを終えてすがすがしい様子だった。




なぜ、ここ愛山東照宮で神仏一体の行事が
元禄11(1698)年、松平宣富公が津山藩に入封し、代々松平家の墓所は泰安寺(津山市西寺町)であったが、なぜか津山藩最後の藩主・松平慶倫公は明治4年に津山城、乾の霊地愛宕山にあった東照宮に合祀された。




東照宮とは、全国各地にあり東照大権現たる徳川家康を祀る神社で慶倫公は熱烈な徳川家康の崇拝者であったのか? 
別当地蔵院が藩中の士人や城下の人たちからもあつく尊信されていたことから、神仏分離の国策によって分離した神と仏が松平家の篤信により神仏一体の行事が残ったのではと、想像を巡らせるのだが真偽のほどは定かではない。
今なお、神仏一体の供養の場が、ここ津山にある事は誇らしい。




神道の墓所と幼稚園と寺院、だんじり庫
愛山東照宮は色々な歴史の流れがあった。
「土塀で囲まれた墓所と幼稚園と寺院、だんじり庫」が一カ所に集まったところ、墓所は津山松平藩藩主慶倫夫妻の神道墓、昭和30年代の幼稚園建設にあたり東照宮の本殿は地蔵院の本堂として保存され、太平洋戦争末期に文豪・谷崎潤一郎の逗留していた宕々庵もあったが今はわずかに碑が残るだけだ。
その下にはだんじり保管庫という不思議な光景。
そして今また、幼稚園の統合により園は移転が決まっている。近代歴史に翻弄された一場面を見るようだ。


奉賛会は城下町津山の文化伝統の高揚を目指す
愛山東照宮奉賛会は、城下町津山の文化伝統と美風(良いならわし)の高揚に努め東照宮、神廟を護り、祭祀を永く存続させたいと活動を続ける。

私たちも今、受け継がれ、途絶えそうな美作地域の文化伝統を盛り上げ引き継いでいく役目を背負っていることを自覚しなけらばならない時期に来ているのかもしれない。

(取材ライティング・武本明波)

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