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堀坂暗渠(釜の口用水トンネル)は堀坂の農民たちを救った

つやま先人のあゆみ 和算の大家・中村嘉芽市の功績



加茂川は吉凶をあざなえる縄

加茂川の流れが大きくくねっている場所にある津山市堀坂(ほっさか)は、川をせき止めて用水として水田を潤していたが、川の水量が増えると洪水になり、用水の水があふれ、家屋の浸水や田畑の流失などが農民たちを苦しめていた。
農民たちの間では「吉凶をあざなえる縄のごとし」と加茂川をあらわし自然の脅威を感じていた。





中村嘉芽市の和算と村民が力を合わせて


堀坂村は森家断絶の後、土浦藩の飛び地になっており、近長村にあった陣屋の代官、亀田清助は和算の大家である田熊村の中村周介に解決策を依頼し、周助の甥の中村嘉芽市に岩盤の掘削工事を託した。

工事は、嘉芽市の和算がなければ成立しなかった。
測量や計算、取水口と取り出し口を決め両方からくりぬく技は、江戸時代の後期には考えられないほどの難問であったに違いないが、嘉芽市の和算の力量と地域で発起人組織を設け職人の手配や資金調達(代官)、資材の準備、支援要請など村人が力を合わせたことは言うまでもない。



堀坂地域に豊かな暮らしを

文政5(1822)年2月に起工し、翌年3月に完成した堀坂暗渠は今も堀坂地域に加茂川の豊かな水を注ぎ潤している。

暗渠(トンネル)のある山の頂には稲荷社があり用水の安全などを祈り「井手守社」という祠が祀られており、堀坂地域住民の安心安全な生活を見守っている。




嘉芽市の晩年は津山で

功績者・中村嘉芽市はその後江戸に出て、幕府天文方高橋作左衛門のもとで勉学に励んだが、シーボルト事件により幕府関係者は追われる身となり、ふるさと津山に帰り天分を生かしきれなかった。
(参考・つやま先人のあゆみ ~あしたへつなぐ~)

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