津山城は、本能寺の変で討死した森蘭丸の弟森忠政が、鶴山(つるやま)に築いた平山城です。
鶴山公園(かくざんこうえん)は、明治の廃城令で民間に払い下げられていた津山城の中心部を当時の津山町が買取り整備し、1900年(明治33年)に鶴山公園として公開しました。
このあたりの古地名としては「つるやま」ですが、城の通称・公園名は「かくざん」となっています。
明治の廃城令で、櫓や天守などの建造物は取り壊されましたが、本丸、二の丸、三の丸の石垣は当時の面影を残しています。
打ち込み接ぎで組み上げられた石垣の上段までは地上から45mに及ぶ壮大なもので、連続した高石垣は見事です。
春には、公園化後に自然発生的に桜が植えられていった約1000本のサクラが花開く季節には「津山さくらまつり」が催され、夜間ライトアップもされ、日本さくら名所100選にも選ばれています。
西日本有数の桜の名所として知られ、公園内には他にも四季折々に様々な花が見られ、11月には「津山城もみじまつり」が行われます。
表鉄門跡を通って本丸に入りますが、表鉄門は本丸への入り口にある櫓門で、門扉全体が鉄板で覆われていたことからこの名前がついています。
表鉄門をくぐると、西向きに石段があり石段を登ると、そこに本丸御殿の玄関があります。
この玄関は、先に門をくぐった表鉄門二階の櫓部分にあたります。
玄関の石段を上がると板の間があり、四十二畳の「広間」へと続きます。
この玄関は多門櫓の中を通り御殿の大広間にもつながります。
1809年に起きた火災により、本丸御殿とともに焼失しています。
天守台の南東側・本丸御殿跡の南は備中櫓が、築城400年の記念事業として復元され、2015年春から一般公開されています。
櫓の名は森忠政の娘婿である池田備中守長幸に由来すると伝えられていいます。
破却された天守は破風を持たない4重5階地下1階の層塔型天守で、南側に櫓門を付属させる複合式平面の天守ですが、天守へは東側の穴蔵入り口から出入り造りでした。
天守台の高さは約3間、穴蔵の高さは11尺5寸、天守建物の全高は約23メートル。
平面規模は初重、梁間10間(65尺)、桁行11間(71尺5寸)の大規模な天守でした。
明治初頭に写された写真では初重の壁面の四隅には袴形の石落としがあり、各階四重目までに鉄砲狭間と矢狭間が備えてあるなど実践本意の天守だったということが良くわかります。
最上階は、戸板に覆われており、その下階の4重目は最上階とほぼ同規模に造られています。
四重目屋根は杮葺きで、軒出も浅く造られていましたが、創建当初は外廻縁に高欄を廻らせていたとの記録があります。
これは、幕府からの咎を避けるためという言い伝えがあります。
「森忠政が津山に5重の天守が建てたことを知った幕府は、さっそく忠政にこの旨を問い詰めた際に、忠政はとっさに「4重である」と主張したが、幕府は疑いをぬぐえず津山に調査の使者を向かわせた。忠政は急ぎ家臣伴唯利を津山に先回りさせて、天守の4重目の屋根瓦を破棄し「あれは庇(ひさし)であって4重である」と言い切り、難を逃れたと伝えられている」
その一方、国立公文書館に所蔵されている正保城絵図の『美作国津山城絵図』には天守の横に「天守五重高十一間」と注記があります。
津山城天守は小倉城の天守を模して造られたともいわれています。
一説には、小倉城の天守の評判を聞いた森忠政が築城にあたって小倉に家臣の薮田助太夫を派遣しました。
海辺に築かれた小倉城は海の上からでもよく見えたため、船を出して津山から同行した大工と絵師に天守を見取らせようとしました。
ところが、検分途中で小倉の家中に見つかってしまい、事情を伝え聞いた小倉城主の細川忠興は、薮田一行を城内に招き入れてまで調査させ、その上図面まで土産に持たせたという話が伝わっています。
最近の新名所として天守台の一角にハート形の石垣があります。
縦約90センチ、横約1目ートルの石がハートの形に見えることから、津山市観光協会は「愛の奇石」としてパンフレットで紹介しています。
ドラマの劇中で「国体のおもてなし料理にホルモンうどんが決まりますように」と、ヒロインが石に願を掛けたことで話題になってからは「ハートの石」目当ての尋ねるカップルが増えているそうで、人気も年々急上昇しています。
鶴山公園は駐車場が少ないですが、混んでいる場合は付近の津山観光センター駐車場(無料、30台)、津山文化センター駐車場(有料、121台)が利用できます。
森 忠政 1570年~1634年
幼名を千丸。
元亀元年、美濃(岐阜県)金山城に生まれる。
京都本能寺の変で、織田信長を守護し、悲運の最期を遂げた森蘭丸の弟。
天正一二年(一五八四)兄長可(ながよし)の戦死後家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えて金山七万石を与えられる。
のち徳川家康に仕え、1600年信濃(長野県)川中島一三万七〇〇〇石を領す。
1603年美作国一円18万6500石を与えられ津山に入封。
翌九年より津山城の築城に着手、また城下の街づくりを始め、現在の津山の基をなした。
1634年三代将軍家光に随伴して津山より上京するが食傷により急死す。
享年六五歳。
なお、この像は津山市小田中、森家の菩提寺本源寺にある木像を基としたものである。
所在地: 津山市山下135
電話: 0868-22-4572
(ライティング:星護 禄胤)