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戦友を悼みながら生きていく

〈靖国の御霊と誓い忘れまじ御国の平和永久に祈らむ〉
美咲町宮山に住む光嶋瀬市郎さんは、今も戦争の重みや、悔恨を背負って生きる。
光嶋さんの心のよりどころは、折にふれ短歌を詠むことだ。

壮絶な戦争体験
「戦時中の話はしたくない」と重い口を開いてくれた光嶋さんは、昭和18年に広島県大竹海兵団に入団、横須賀砲術学校などを経て軽巡洋艦・矢矧(やはぎ)に乗艦。機銃要員(射手)として最前線で戦った。レイテ沖海戦では、ボルネオ、ブルネイ湾に集結。戦艦大和、武蔵、長門など5隻、重巡洋艦10隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦15隻。
合わせて22隻がレイテ奪回のため出撃した際、光嶋さんの乗艦した矢矧も行動を共にした。同作戦で日本海軍の艦隊戦力が事実上壊滅し、神風特攻隊が初めて攻撃を始めたという史上最大の海戦と言われる戦いで矢萩も本来の目的を達成することができなかった。

レイテ生き残り軽巡洋艦・矢矧、戦艦大和、長門、金剛。
小雷戦隊・雪風、浜風、磯風、浦風で帰路についた。
台湾海峡で魚雷攻撃を受け金剛が沈没、魚雷を受けて沈没まで多少に時間があったので約40人を救助したが、浦風は瞬時にして轟沈した。
「一人の仲間をも助ける事ができなかった」との悔しさで涙がとめどなく流れたという。




戦友の死にも直面した

戦友の悲惨な死も目の当たりにした「言葉ではとても表せれないみじめな戦いだった」と目を伏せた。その表情から戦争の悲惨さがにじみ出る。
〈レイテ沖戦にて果てし友偲び深まる秋にひとり香を焚く〉

機銃で頭の割れた同じ隊の隊員もいた。
光嶋さんは何もわからず何も考えられない極限の状況で戦う意味さえも分からずなくなっていった上官の命令のまま戦い散っていった友を偲び、短歌をしたためる。
〈戦争を風化させるな前線の地獄のさまを今も忘れず〉
〈歌詠みて頭髪・爪を残しゆき「特攻」の友は二十歳なりき〉
 
短歌を詠んで友の鎮魂を
光嶋さんは戦争の傷跡を新聞の文芸欄に短歌を投稿し続ける。
「亡くなった友への鎮魂となればいいと思う、そして戦争は絶対にしてはいけないという気持ちを込めて投稿している」。
 
 御年95歳。平成23年に最愛の妻を亡くした。
「妻の介護もだれにも頼らず一人でやって来た、戦争でのつらい思いを振り返れば、妻のために介護をすることは当たり前のありがたいことだと思っていた」
〈傷跡の痛みも永らく耐えたるに妻逝き今は誰に語らん〉
  
光嶋さんの短歌
〈いましばし戦さを語り尽くすまで神よ命よ召さるるなかれ〉
〈年々に記憶のうするる戦争を子らに語るも美化してならずと〉
〈鹿屋基地に語り継がるる「特攻」に少女が送りし身代わり人形〉
〈激戦の砲弾銃音我が耳になお消せず戦渦の世代〉
〈南海の空を焦がして散り逝きし暑き御霊は平和の礎〉

戦争を知らない私たち、光嶋さんは多くを語らないが、短歌に込めた平和の思い、悲惨な戦争を私たちは重く心に刻み込まなくてはいけない。

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