夕風の落葉舞う音(ね)に振り向かぬ
散歩帰りの亡夫(つま)かと思い
山本 見佐子
●そこはかとなく哀愁の漂う鎮魂歌(レクイエム)である。
ご主人が亡くなられたあとも、息子さんご夫婦が切り盛りするお店を、気丈に影で支えている作者である。
仕事の後のひとときを近くの公園で過していた作者は、夕方の一陣の風に吹かれ道に散り敷かれていた落葉が、カサコソと音を立てたのでふと振り向いたのだ。
下の句の「散歩帰りの亡夫かと思い」という表現や何気ない仕草のなかに、今でも常に亡きご主人への思慕の情が強かったのであろうと感じられる。
以前、元気に自分の足で歩いて散歩されていたご主人が、落葉を踏む音を立てて「今、帰ったぞ!」と声を掛けてくれていた。もう一度あの頃のような日が還ってきてくれたらどんなに嬉しいだろう。そう感じているのであろう。
日々の生活のなか、今でも作者の裡に伴に亡きご主人が暮らされている歌である。
雑念を払いのけよとわが鼓動
一心にして無我をさまよう
宗安 俊明
●なんと禅宗的な短歌であろうか。「禅」とは、古くからインドで行われている修行方法で、精神を一つの対象に集中しその真の姿を知ろうとすること。とある。
人間は常に多くの雑念に包まれて生活している。そしてその殆どがストレスとなり不安をもたらしたり、安眠を妨害し精神の健康を損ねる原因の一つとなる。
この作者ばかりでなく、この歌の境地を経験した人は多いのではないだろうか。心を病みそうになった時、自然に一旦「無」の状態に心をリセットしてみようと試みる。どんな善人でも一点の曇りも持たない人間などまず居ない。
善行と愚行、向上心と他人への妬みなど、相反する己の心が常に揺れ動いていて、そんな雑念を払いのけようとするのも自分の心である。
それは自分の内部の葛藤であり、行動や思考の反省と結びつき大きな飛躍へと繋がることが多い。心の内面を的確に表現されていて良く伝わる歌であろう。
疫災に愛(は)しきらに会へぬ日々長く
朧(おぼろ)になりゆく老母施設に
橋本 眞佐子
●「疫(えき)」は流行性の病気、はやりやまい、えやみである。まさしくこの度のコロナのわざわいに他ならない。作者の母親への思慕の情の深さを詠んだ歌である。
この一首まったく同じ思いで毎日を過している筆者も、老いた母(九十六歳)を施設に預けていて、もどかしさは作者と相通じると感じている。
「愛(は)しきらに会へぬ」は老いた母からの気持ちを代弁していると読み取るべきであろう。筆者も図らずも入所させてしまった母を、必ず毎月一~二度は施設に迎えに行き、車で連れ出して花見や紅葉狩りも三ヶ所ばかりは観させていたし、昼食も外出の度に一緒にしていたものだが、今はコロナ禍で外出はおろか面接に行っても逢わせてもらえない。パソコンとスマホの動画での、面接対話が許されるのみである。やはり直接逢えぬと母の表情も次第に乏しくなってきていて辛い。コロナ禍で「朧になりゆく老母」の表現は巧みであり現代を切り取った秀歌である。
遠山に散りばめしごと白しろと
浮き立ち咲ける山桜はも
河野 澄恵
●この短歌も前出の「疫災」の歌と共に最近では少なくなってきた文語調の旧来の
格調高い調べを感じさせる一首である。
山笑うは俳句でよく使われる春の季語であるが、冬から春に季節が移り変わる時に、山の木々の芽吹きでそれまでの暗褐色の山が薄紫を含んだ色に変わり、山桜が咲き始めると、急に「白しろ」と自分の存在を知らすかのように位置を占めるようになる。咲き終ると葉桜になり、また他の山の木々に紛れてしまうので、山桜は花が咲いている期間のみその位置を我々に知らせてくれている事になる。
作者はこの山桜が無類に好きだという。何事にも控えめで一年に一度花の時期だけ存在感を示すあたりが作者と相通じる感じがするのだが、常に短歌は頗(すこぶ)る上級な歌を詠まれている。結句の「山桜はも」は文末に用いて愛惜の気持ちを込めた感動や詠嘆の意を表している。「浮き立ち咲ける」も表現が巧みで秀歌である。
今月の短歌
むらさきの
風を発(た)たすか
裏庭の
十二単(じゅうにひとえ)の花
重ね咲く
矢野康史さん プロフィール
あさかげ短歌会津山支社代表。全国あさかげ短歌会代表。津山市西苫田公民館と一宮公民館の2カ所で短歌教室を指導している。津山市文化協会副会長。
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