短歌への誘ひ
夕映えを背(せな)に手を振る我残し
孫乗る一両車(れっしゃ)ゆるゆると発つ
川上 悠子
●映画のラストシーンを見ているような静かに心に残る一首である。作者の住む県北のローカル単線の地域では、その多くが無人駅である。
外孫であろう若者が祖父母を訪ねて来ることは、何にも増して嬉しい出来事であるが、それだけに逆に帰りの別れが寂しく辛い時間なのである。
上の句にあるように、夕方まで過して楽しい時間を共有してくれたのだが、暗くならないうちに帰してやらなければ、と帰りの心配をするのも祖父母だからである。
真っ赤な夕映えを背に孫に手を振る姿が、直喩(嬉しいとか哀しいとかの直接的比喩)を使用していない分、余計に作者の寂しさが表現されている。
そして下の句の一両車と漢字表記しルビで「れっしゃ」とした辺りが現代短歌では表現方法の拡大として許され始め、これによってローカル線の一両列車を字数を増やさず表現出来る最良の手段であり、結句も後ろ髪引かれる作者の思いが籠る。
勿体なき廃棄食材この地球(ほし)に
飢餓で死にゆく子らもいるのに
佐藤 建子
●現代の暗い現実をさらりと短歌に詠み込んで、問題提起している作者である。
日本はその食材の多くを輸入に頼っていながら、都会や多くのコンビニなどでも食品の安全性を重視する代償として、売れ残りの期限切れ食材が廃棄されている。
一方で未だに貧困に苦しむ地域の多くの子供達が、何日も一杯のミルクさえ口に入らないで痩せ衰えて命を落としている現実が、この地球上に存在していて作者はそのギャップに心を痛めているのである。
何年か前、「勿体ない」と言う日本語が世界の共通語として理解されていると、メディアで流れていた。物を大切にする日本人の美しい言葉である。と紹介された。
しかし実際には廃棄食材は沢山存在していると、作者は嘆いている。地球上の何処かで今日も、この廃棄食材で救う事が出来る子供達の命がきっと有る。心優しい作者は短歌に詠むことしか出来ない自分に無力を感じている結句である。
失せたかと思ひし庭のすずらんに
青き芽の見ゆうれしき朝(あした)
宰務 ときこ
●すずらんはユリ科の多年草で、その愛らしい花姿から「谷間の姫百合」とか「君影草」のふたつ名を持つが、草全体に有毒成分を含むとある。
筆者の畑の隅にも北海道の友人から贈られた鈴蘭が地付いて、毎年小さな白い可憐な花を楽しませてくれている。この花は痩せた高原を好み、案外ほったらかしで何も手を加えない方が良いそうで、気を遣って液肥を与えたり大切に扱うほど花が絶えてしまう。と北海道の友が教えてくれ、ずぼらな筆者にはお誂(あつら)え向きな花。
さて表出歌であるが、作者はすずらんの花を心待ちにしていたのであろう。庭のいつも咲く場所に今年はなかなか咲く気配が無い。もしや無くなったか?と心配していたら、小さな青い芽を見せてくれた。作者の心の動き(心配から嬉しさへ)が素直に表現されていて、一首の流れも良く直喩「うれしき朝(あした)」としている結句が本来は直喩を極力使わない方が良いのだが、ここではあまり気にならない歌である。
風清(すが)し若葉は光り里山に
藤の花房さはさは揺れる
堀内 あい子
●季節は新緑の青葉風、一年中で一番爽やかで気持ちの良い空間に作者は身を委ねている。読み手にそう感じさせる一首である。
この作者は、普段独特の新しい感覚の短歌を詠まれているのだが、歌会の先輩が詠まれているオーソドックスな文語体旧仮名遣いの短歌に憧れを持たれていて、時折このような文語調の伝統的な短歌に挑戦されている。
上の句の「若葉は光り」が作者のわくわくした心持ちを表現していて、この時点で光りであり風そのものに溶け込んでいる作者である。
下の句の「藤の花房さはさは揺れる」も、普段新仮名を使用されている作者が旧仮名を使ってみたくて詠まれた短歌なのだと思う。現代短歌では中央歌壇でもめっきり旧仮名短歌が少なくなってきているが、この歌のような伝統的な正統派の香りがする短歌にはやはり旧仮名の「さはさは」が一首を格調高く仕上げるのだ。
今月の短歌
黄と白の
花乱れ咲く
忍冬(すいかずら)
コロナ禍忍(しの)び
甘き香放つ
矢野 康史
矢野康史さん
プロフィール
あさかげ短歌会津山支社代表。全国あさかげ短歌会代表。津山市西苫田公民館と一宮公民館の2カ所で短歌教室を指導している。津山市文化協会副会長。