アットタウンWEBマガジン

短歌への誘(いざな)ひ@歌壇

2023年02月16日

コロナ禍にはらから集ふ元旦の
 黙(もだ)し戴くおせちの料理


宰務 ときこ


●コロナ禍の許で三回目の正月を迎えた。作者の家庭でもお正月は、はらから(兄弟姉妹)が集い、本来はお互いにそれぞれ年頭の挨拶の後、にぎやかに今年はこう
したいとか、希望や抱負を述べながら作者の腕に撚りを掛けて準備したお節料理を
ワイワイ愉しく戴いていたのだが、こんなに静かに黙々と戴く元日の朝は寂しい。


 作者は自宅での恒例になっていた賑やかで晴れやかな元旦風景を、短歌に詠み込みたかったのだが、今年も前年と同様にコロナウイルスの予防対策で、極力静かにおせちのご馳走だけ食べて、お喋りは食後にマスクをしてから行うのである。
 折角お正月に身内が集まったのだから、作者としては実に寂しいし切なく残念な宴席だったに違いない。ともあれ皆々が無事に一年を過ごし、此処に集い顔を見せてくれただけでも有り難い! この一首にはそういう作者の心のありようが読み取れる。しかも直接的比喩をまったく入れないで詠まれていて評価できる歌である。


稀にみる寒波くるとう気象庁の
 予告外れず津山大雪
信清 博史


●二句目の「寒波くるとう」は「寒波くるという」の約音(やくおん)で、連なった二音節を約(つづ)めて一音節にする。例えば「~とあり」を「~たり」とつづめて言う時に使う用法。


今年の一月二十四日は、確かにその前日から気象庁が数十年に一度の大寒波が来るという予告を聞いてはいたが、当日の午前中はさほどの異常も感じなかったのだが、午後二時を過ぎた辺りから雪が舞い始めたと思いきや、短時間のみるみるうちに猛吹雪となり、二十五日の朝まで降り積もった雪は、筆者の家の前の道に出て物差しで測ってみると、何と五十七センチ! 新聞も郵便や宅配便も近寄れず二日間道の雪掻きをして、やっと家までの通りが開通し車庫から車を出せたのだ。
 全国ニュースで津山市の降雪が記録的だったと伝え、筆者の北関東や信州の知人から、津山って意外に雪国だったの?と冷やかし半分のお見舞い電話を沢山頂く羽目になった。こうゆう予報は外れてくれる方が有り難い短歌である。


ふわふわと雪の舞う日は二刀流
 本を読みつつテレビも点けて
早瀬 榮



●大寒の頃の短歌は前出の歌同様に雪を詠むことが多くなってくる。
 ただし、この歌の作者は外の雪にも泰然自若として少々の事では動じない(笑)。
風流人はこうあって欲しいものである。部屋の中から時折外の雪を眺めながら悠々と読書に耽っているのである。しかも読書を中断して気晴らしに外に出ようにも雪が降っていては、散歩や近くの買い物や畑仕事も出来ない。


 開き直って、もうこんな日は部屋から出ないで過ごそうと、読書に飽きたらテレビを点けて、時々はテレビ画面にも目を向けながら、また本に戻って読み始める。
こういう二刀流も有りだよね!と作者自身が自分に頷いているのが見えるようだ。
この短歌、初句の「ふわふわと」が作者の主観によるもので、先日の大雪の場合ではないと想像できるが、雪の降る日は読書三昧で温かな飲み物でも頂きながら・・・
と、作者の心のゆとりが表現されている作品として評価している。


冬ざれの野辺に残れる烏瓜(からすうり)
 くすみゆく朱誰ぞ知らんや
福島 明子



●この一首に出会えた時、何と素晴らしく印象的な写生詠だろうと感嘆させられた。
寒々と枯れ果てた野辺に、くすんで枯れ残った烏瓜の朱がふと作者の目に留まった。
 烏瓜は茹だるような真夏の陽が落ちた夜に、雌雄別々の白い花が咲き、シルクのレースを思わせる網のような特異な花を咲かせ、朝には閉じてしまう。


筆者も以前夜の野辺に烏瓜のシルクのレースの様な花を見て、その妖しい美しさを真夏の夜の貴婦人に喩(たと)えて短歌を詠んだ事を思い出した。晩秋に朱く熟れた実を雌花にのみ結ぶという。名の由来はカラスが好んで食すからと言うが根拠は乏しい。
 作者はその特徴的な花を歌題とせず、枯れ残ったくすんでゆく烏瓜の実を詠んでいるところが、筆者はこの作者の感性の豊かさだと思った。美しく咲いている花には誰でも目が向くものであるが、枯れ果てた無機質な野辺にかすかな朱を残しつつくすんでいく実にのみ、焦点を絞って一首を詠まれていて秀歌として評価したい。




今月の短歌

如月の
寒の残りし
薄ら陽に
庭の古木の
梅五輪咲く

矢野 康史



矢野康史さん プロフィール
あさかげ短歌会津山支社代表。全国あさかげ短歌会代表。津山市西苫田公民館と一宮公民館の2カ所で短歌教室を指導している。

津山市文化協会副会長。



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