奈義町にある代表的な3本の公孫樹、最も大きく古いのが菩提寺の公孫樹。
国の天然記念物に指定され、樹高約45m、周囲約12m、推定樹齢900年を超える大木で岡山県では最も大きな木になります。
菩提寺から直線で1.5キロほどの馬桑川左岸にある阿弥陀堂の大公孫樹。
こちらは、樹高13m周囲6.8mで幹が3m辺りでなくなっており、周りの枝が高く伸びています。
そして、菩提寺にもう一本ある比較的新しく若い天明の大公孫樹。
樹高35m幹周囲が4.2mあり、こちらもかなりの大きさとなっています。
またこの3本は2014年の調査で、いずれも同一DNAであることが確認されています。
この3本の大公孫樹には色々な言い伝えがあります。
「浄土宗を改組した法然上人が幼少時「勢至丸(せいしまる)」といった頃、父を亡くし生まれた誕生寺から菩提寺に向かう途中、出雲井の香炉寺を経て小坂の阿弥陀堂にやってきました。
古くには幸福寺という寺があったようですが、勢至丸がそばにあった銀杏の枝を折り、杖にして菩提寺に登りました。その時杖に使った公孫樹の枝を地面に突き刺し「学成れば根付けよ」と願掛けしたのが菩提寺の大公孫樹になったということです。」
しかし、この伝説は矛盾が生じます。
まず、法然上人が生まれたのが1133年です。教育委員会の説明看板は昭和時代にはもう立っていました。
もし、法然上人が6歳だとしても、1100年より早く生まれてないと樹齢900年以上の公孫樹を差すことはできません。
その上、菩提寺の大公孫樹は幹の周囲が12mで阿弥陀堂の大公孫樹は6.8mと菩提寺の公孫樹の方が圧倒的に大きいです。
それだけでなく、乳下りも阿弥陀堂に比べ、菩提寺の方が長く複雑に垂れ下がっています。
どう考えても菩提寺の公孫樹の方が古いはずです。
何のために「親子を逆転させて伝説作ったのか?」気になるところです。
考えられるのは、法然上人が挿し木をしたことが事実ではないことを暗に、のちの人々に伝えるために、このような話にしたのではないかと思われます。
今流にいうとジョークを言い放ち矛盾を入れることでジョークだと知らして落ちにしていると考えれば、よりこの伝説もおもしろくなります。
また、隣り合って立つ、天明の大公孫樹は菩提寺の大公孫樹が大雪で半折れとなり、枝先が土に突き入り、偶然根付いたと記録されています。
位置的にも隣り合っていますし、成長力の強い公孫樹は実際に半折れの枝が根付いても、全く不思議ではないです。
しかし、半折れの枝にしては若干距離が遠すぎる感があり、根が付いたのちに今の位置に植え替えられた可能性があります。
しかしながら菩提寺の大公孫樹の見事さは、法然上人の伝説がどうあろうが全く魅力が衰えることがなく見る人を魅了します。
特に秋の葉が色づいた時期は、黄色に染まった巨大な木に地面に引き詰められた黄色い絨毯。
大きく張り出しだ枝にも黄色の葉をまとった姿は夢でもみてるような豪華さです。
周辺の常緑樹の緑とのコントラストも神秘的で、まるで異世界に迷い込んだ錯覚を感じるほどの感動を覚えます。
さらに隣にある、天明の大公孫樹が菩提寺の大公孫樹を補完するかのように、背景に黄色を散らしています。
その菩提寺を後にして、直線距離で約1.5キロ麓馬桑川左岸ににある阿弥陀堂の大公孫樹に向かいます。
直線距離ではそう遠くはないが、山道を迂回しながらなので実際は近くないです。
イチョウは落雷によるものか主幹は高さ3mほどで折れており、周囲からの多くの枝が出ています。
菩提寺を見た後に阿弥陀堂の大公孫樹を見るとスケール感では見劣りしますが、樹勢が良く、乳下がりが地面に達する程になっての若々しさが印象的です。
また、周辺が田んぼで、何とも言えぬ日本ぽさを感じるロケーションを味わえます。
ここには、かっては幸福寺とよばれた寺があったとされ、「阿弥陀堂石造群」があります。中でも「石造無縫塔(せきぞうむほうとう)」は岡山県の重要文化財に指定されていおり、鎌倉時代末期頃のもので欠損がないそうです。
この無縫塔は鎌倉時代末期から室町時代初期頃までの様式を示しており、ほぼ欠損のない姿をとどめており、無縫塔の中でも形式上重制無縫塔に分類されます。
岡山県内で、もこの無縫塔を含め4基が確認されているのみであり、大変貴重な石造物です。
大公孫樹共に無縫塔も見学されることをお勧めします。
所在地: 奈義町高円1532
電話: 0868-36-7311
(ライティング:星護 禄胤)