矢筈城は津山市にある岡山県最大の城郭跡です。
東西1600メートル南北500メートルを超え、比高426メートルという高所に主郭を置いた山城で、幾たびの合戦で落城することが一度もなかった難攻不落の大城郭です。
登城するには、ふもとの千磐神社と矢筈神社からできます。
遺構は、山頂付近に主郭があり、西に続く尾根に二の丸、三の丸と曲輪群があり、三重堀切など幾つかの堀切群を挟んで東郭に続きます。
野良積みの石垣も若干の崩れなどもありますが、自然を利用した竪堀や石塁などは良好で、切岸、土塁、堀切など、土の遺構も比較的良好な状態で現存しています。
特に主郭部は切りだった花崗岩の絶壁など自然の形状を上手く利用し、石塁なども自然石を部分的な加工に留め効率よく防御力を高めています。
麓の加茂川を堀と見たて大ヶ原と呼ばれる曲輪に政務などを行う内構と呼ばれる大規模な館がありました。
矢筈城は1532年に築城されたと言われています。
別名に高山城、草刈城とも言われ、草刈衡継が築城し代々草刈氏の居城として1582年に草刈氏の退去にともない廃城となったとのことです。
草刈氏
『萩藩閥閲録』という毛利家の記録によれば、草刈氏の祖は上野国の豪族で、940年、平貞盛とともに平将門征伐で名を挙げた藤原秀郷と記されています。
1243~46鎌倉将軍であった頼経親王から陸奥国斯波郡草刈郷の地頭職を賜り草刈の姓を称するようになったといわれています。
1336年、草刈貞継は足利尊氏が九州に敗退したとき、殿軍として備前国和気郡の三石城で新田義貞の追討軍を相手に時間を稼いだといいます。
草刈貞継はこのときの戦功により、1338年因幡国智頭郡を賜わり淀山城を築いて、そこに拠ったとのことです。
その後の南北朝の争いでも戦功をたて、1350年ころに美作国苫東郡青柳庄・三輪庄・加茂郷などの地頭職を賜ったとあります。
また、貞継の子、草刈氏継は山名氏清の討伐の戦で戦功をたて足利義詮から苫東・苫西郡の地頭職に補されたともいわれています。
さらに氏継は本領のほかに、南接する美作にも兵を出すなど武力で所領の拡大に務めています。
草刈盛継の代になると山名宗全方として戦った応仁の乱でも戦功を挙げ、所領を拡大している。
その子景継の代になると、智頭郡の大半を押領し、150年からは播磨の赤松氏、出雲の尼子氏とも争っている。
1508年に、西国に落ち延びていた足利義稙を奉じて大内義興が上洛の陣を起こす頃には、草刈氏は尼子氏と対等に渡り合える一大勢力を持つ戦国大名なっていました。
毛利に降った尼子氏の滅亡と再興では尼子孫四郎勝久を主君として山名豊国と結んで毛利方の武田高信を攻め、山名豊国を鳥取城主とし、尼子党は若桜鬼ケ城に入って毛利氏と対峙しました。
その際、毛利に味方する草刈景継と武田高信との争いを仲裁し戦力の向上を図ります。
この際に、和議の条件が父の代から毛利氏に尽くしてきた草刈氏より、新参者というべき武田氏に厚かったことから、織田氏からの調略の手が伸びた際に転じることに決し、信長からのお墨付きを待ったが使者が智頭郡の北方にある毛利方の関所で捕えられ、懐中にあった景継宛の信長朱印状も押さえられてしまった。
ところが、この使者が報告を聞いた隆景は、景継の家来を呼び寄せると朱印状を見せ、事態を収拾するように厳命した。立ち返った家来の復命に接した景継は、武士らしく切腹、矢筈城の山麓に葬られた。
景継が切腹をしたのちは弟の重継が草刈家の家督を継ぎ、毛利一族の小早川隆景に属し、尼子勢を撃退、敗走する尼子勢を追撃して若桜鬼ケ城に攻め寄せました。
以後も、重継は兄景継の汚名を雪がんとして毛利氏に誠忠を尽くし獅子奮迅の活躍をしました。
『萩藩閥閲録』の由緒書をみると、信長が本能寺の変で明智光秀に殺され、備中高松城を攻めていた羽柴秀吉が毛利輝元と和睦するまでの間、草刈氏は毛利氏のために、尼子氏、宇喜多氏、新免氏を相手にこの地を固守し続けていたのです。
所在地: 津山市加茂町山下
(ライティング:星護 禄胤)