正月を静かに過す寂しさも
コロナの呉れし休日と思ふ
信清 小夜
●昨年の正月までは家族の帰省があり、賑やかな年末年始であったに違いない。
ところが昨年の2月からのコロナ騒動である。「3密を守れ」「不急不要の外出を控えろ」など政府から行動の自粛を求められはじめ、我々あさかげ短歌会の公民館を使用しての短歌教室も、3月から3ヶ月間の定例会を自粛せざるを得なかった。それでも勉強熱心な会員諸氏の要望もあり、6月からマスク着用や消毒、室内の換気を図りながら短歌教室が再開出来たことは皆様のお陰である。
さて、表出の歌であるが今までの帰省される子供さんやお孫さんの賑やかな声がしない、今年は特別寂しい正月を経験された。コロナ禍を政府の対応の悪さや世の中の所為にして嘆く歌が多い中で、作者はこの寂しささえも前向きに捉え、本来は憎っくきウイルスであるコロナが、静かな休日を呉れたと詠む。
なんとどっしりと構えた生き方であろうか。短歌(うた)はコロナに負けていないのだ。
秋の夕陽(ひ)が部屋の隅まで入りきて
夫(つま)の残した車椅子照らす
山本 見佐子
●この一首心に沁みる挽歌である。作者は近年最愛のご主人を亡くされたのだ。
作者は息子さんが継がれた家業を手伝いながら、病気のご主人を熱心に介護されていた。作者の周囲からも手の行き届いた介護をされていたと伝わっていた。そのご主人を亡くされた後も主(ぬし)の無い車椅子が部屋の隅に置かれている。
秋の落日が部屋の奥まで差し込んで、ガランと広く感じるようになった部屋の寂しさまでも演出している。何故なら釣瓶落としの秋の陽はそのあとすぐに無情の切なさを呼ぶ夜の帷(とばり)を引き下ろしてしまうからである。
作者は寂しいとか哀しいという直喩(直接的表現)を一切使わず、それ故に余計にこの一首が読む人に作者の心の裡の寂しさや哀しさを感じさせている。
未だ歌歴は浅い方だが、歌詠みのコツを既に持ち合わせている将来性有望な新人で、是非我があさかげ短歌会の中心で活躍される方に育って頂きたい。
陽当りの良き庭に咲く蝋梅を
活けて初春心新たに
井上 襄子
●年の暮れから正月にかけてぐっと気温が下がり積雪もあったが、陽当りの良い庭には蝋梅が早くも綻び、数輪花開いて香りを立たせていた。
作者は、寒さに負けずいち早く咲くその蝋梅を活けて初春を祝ったのである。
優秀な介護職である彼女は、年末年始もほとんど休暇を取らずにお年寄りの為に働き詰めの毎日と聞く。筆者も介護の仕事の経験者として、この仕事には365日土日もなく、仲間と交替で休暇を取る以外には休みが無いことを知っている。
介護職は自分の生活時間を犠牲にしなければ成り立たないのだ。作者にとって、氷点下の中でも僅かの陽を集めて咲く蝋梅の花に、特別な思いを抱いているのではないだろうか。正月を迎える花として、その蝋梅を活けた作者の気持ちを思う。
おそらく今年も仕事に明け暮れるであろう。彼女の来訪を待ち望んでいる利用者のお年寄りがいるかぎり、仕事の達成感と誇りだけが彼女の支えになっている。
そして心新たに今年は短歌も心の拠り所として頑張って頂きたいと願っている。
消費期限チェックする手がふと止る
そうか一生(ひとよ)も期間限定
花村 輝代
●日頃何気なくしている消費期限のチェックであるが、なるほどそうか人の一生ももしかして消費期限のようなものか? と、ふと頭を過ぎった作者の歌である。
この作者は、時として何気ない日常から思いもよらぬユーモラスな歌を詠む。元々は非常に困難な辛く苦しい時代を経験されて、有るときは自殺も考えられたそうである。その大変な時代を乗り越えられたのは「短歌との出会いがあったから。私は短歌を詠むことによって救われてきた」と今では本当に嬉しそうに話す。
他人には言えないような、話しても理解して貰えないような過去を生きて来たからこそ、彼女はこのような少し変った思考回路を持ち合わせるように成ったのかも知れない。しかし、多くの友人に「私は短歌によって救われたの」と経験を話し、彼女は短歌の道に仲間を増やして呉れている。大変有難いと思っている。
表出の短歌は意表を突く面白さが素晴らしい。ただ下の句の「そうか一生も」を「そうか我が世も」としたら、自分の生に引き付けられインパクトが生まれる。
●今月の短歌
犇犇(ひしひし)と
コロナの恐怖
迫りても
政府の対応
牛歩に倣(なら)ふ
矢野 康史