何処までといふ当(あて)あらず土手の道
外出(そとで)ごころを宥(なだ)めむとして
澤井 悠紀子
●昨年の早春から、現代を生きている全世界の人類が未だかつて経験した事の無い新型コロナウイルスの猛威のため、行動を規制され自粛自粛と重しを乗せられて生活の自由を奪われてしまっている。
それまでの、普通に朝起きて普通に食事をして普通に外出をし、普通に・・・していたのが、コロナ禍の中では必ず外出時はマスクをすることを強要され、仲間との交流にも多くの制約に従わなければならなくなった。
この作者は、その「不自由さ」、今までのさり気ない「普通さ」が無くなった事への不安がいつまで続くのか?と感じていて、初句を「何処までといふ当」も無く、と詠い人気(ひとけ)の無い土手の道をそぞろ歩きしているのである。普通に遠出をしたい気持ちを宥めるようにと表現している。自分のあての無い散歩と出口の見えないコロナ禍を巧く絡め合わせてあり素晴らしい!上級者の秀歌である。
詫びつつも枝垂れ桜の一本を
手折りて活けむ部屋の片隅
岸元 弘子
●こころ優しい作者の一首である。家の外でこの世の春とばかりに咲き満ちている枝垂れ桜だが、部屋の中にも「春」を呼び込みたい作者は、どうしてもその花を飾りたかったのである。
心の中で「ごめんなさい」と桜木にお詫びを言いながら、思い切ってポキリと手で折った。あたかも木の痛さを感じたように、申し訳なさそうに部屋の中に持ち込んで、だから堂々とでなく部屋の片隅に活けた。
活けながらも未だ「ごめんね」と謝っていそうな作者の背中が見えるようだ。
初句に「詫びつつも」がくると、どうしても作者の気持ちが主になってしまう。
もし、枝垂れ桜の豪華さを主に歌を詠むと、「咲き旺る枝垂れ桜の一本を詫びつつ手折り活けむ部屋ぬち」となる。初句にどちらをもってくるかで、ニュアンスがかなり違った歌になる。この歌の場合作者の優しさが詠まれた歌になった。
子鹿との思わぬ出会い里山の
身じろぎもせず見つめ合う時間(とき)
頃安 成子
●作者は短歌よりも山歩きが大好きと言う、当世風「山ガール」である。
昨今は野生の鹿が繁殖をして、著者の近くの里山でも何度か鹿を見かけたことがあった。以前テレビ番組で、瀬戸内海日生諸島の鹿が多く住む鹿久居島と日生を結ぶ、備前♡日生大橋が平成二十七年に完成し、夜中に島から野生の鹿が本土に橋をどんどん渡っていく姿が映像で紹介されていた。
以来急激に中国山地をはじめ各地域の山に野生の鹿が繁殖し、今や猪の獣害より鹿による作物や樹木の害が多いそうである。
しかし、作者の出合ったのは子鹿である。円らな幼気(いたいけ)な目で見つめられたら確かに、身じろぎも出来ないであろう。そのどぎまぎとした彼女の様子がこの一首に現れている。山歩きの途中で突然出くわしてしまった、おそらくそれはほとんど一瞬の出来事であったと推測されるが、時間(とき)を感じたほどの経験歌である。
コロナ禍に梅も桜も早く咲き
憂さもハレルヤ不思議に思う
田野 孝明
●一番目の歌にも書かせて頂いたが、昨年の早春から未だ経験した事の無い新型のコロナウイルスにより、我々の普段の生活状況が一変させられてしまった。
不自由を強いられ、観光も飲食業もどん底に叩きこまれ、経済もこれからどう立て直せばよいのか、と誰しも不安に駆られる毎日である。
この作者は、この短歌が処女作である。結句の直接的表現は一考を要するであろうが短歌に興味を持たれ、初めて五七五七七の定型詩に挑戦された事に讃辞を呈したい。しかも四句目に、コロナ禍に疲弊する人たちの目線で(こんな嫌な事ばかり続く中、今年は春が駆け足でやってきて)いつもの年より早く咲いた花々に、「憂さもハレルヤ」と神への感謝を表すハレルヤと憂さが晴れるを掛け合わせ、作者の念(おも)いがこの四句に全て込められている。初心者としては一首纏まりも調べも良く作られていて優歌である。益々の精進を期待する大型新人である。
●今月の短歌
名残(なごり)つつ
こびとの赤き
簪(かんざし)か
さくら蕊(しべ)
ふと髪に舞ひ落つ
矢野 康史
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矢野康史さん
プロフィール
あさかげ短歌会津山支社代表。全国あさかげ短歌会代表。津山市西苫田公民館と一宮公民館の2カ所で短歌教室を指導している。津山市文化協会副会長。