朝早く轟(とどろ)きわたる牛の声?
厩(うまや)の掘りの主蛙らし
三好 多恵子
●まず作者にお断りしておかなければならないが、原作は(短歌は)できるだけ漢字にルビを打たないのが原則なので、「轟き」も「厩」もルビを打たれていない。ただ、この場は短歌をされていない読者の事も考慮して、読みにくい漢字にはこの欄に掲載させて頂く短歌にルビを打たせて頂こうと思っている。
さて、掲載歌だが、作者は毎日早朝散歩をされている方で、鶴山城址辺りの石段を上り降りし足腰の鍛錬をされていると言う。早朝の未だ薄暗い頃、市街地に牛の鳴き声が轟く。はて?昔ならいざ知らず、農家の無くなった市街地で牛の声とは?歩を早めながら石段を上って行くと、どうやら声の主は城の厩堀の方から聞こえて来ることに気付いた。声の主は戦前、食用にと外国から入れられた大きな牛蛙だ。新しい短歌では?マークなどの記号も許され、表現の幅が広くなっている。ただ、固有名詞の厩掘りは「の」を入れないで「厩掘りに棲む」としたい。
ゆく夏の蝉しぐれ聞く山道に
散りゐし葛の花色さやか
清水 美智子
●一読して情景が立ち上がってくる歌である。日頃から山歩きを趣味にされている、作者の日常を垣間見るようである。
晩夏の山道である。昼間であれば未だミンミン蝉かアブラ蝉、にいにい蝉などかしましく鳴いているだろうし、早朝や夕方の少し涼しい時間ならつくつく法師や蜩(ひぐらし)がゆく夏を惜しんで頻(しき)りに鳴いている。
その山道の所々に紅紫の葛の花が散っていて、歩き疲れた脚を少しとどめさせひと息憩わせてくれる。夏の濃い緑一色の景色の中、葛の花の紅紫の鮮やかな色が点々と散り敷かれている。見とれている間に汗ばんでいた体に爽やかな風まで吹いてきて心を和ませてくれる。勿論、この歌にはそんな「風」などどこにも詠み込まれていないが、この歌には「風」の存在まで感じてしまう筆者である。
赤蜻蛉(あかとんぼ) 秋の訪れ知らすかに
田畑の上を競いつつ舞う
萬代 民子
●赤蜻蛉と書いて(アキアカネ)とルビを振られていたが、此処は敢えて表出歌のように(あかとんぼ)とさせて頂いた。何故なら(アキアカネ)と下の「秋」の位置が近すぎて、読んだとき「アキアカネあきのおとずれしらすかに」となり少し平凡さを感じる歌になってしまうからである。
もし(アキアカネ)と読ましたいなら、―赤蜻蛉(アキアカネ) 田畑の上を競いつつ 秋の訪れ知らすかに舞うー と「秋の訪れ」の位置を入れ替える手も有る。
作者は、津山市郊外美咲町の山間で、先祖伝来の田畑を独りで守りながら短歌の勉強を熱心にされている。作者には短歌仲間や山菜採りの友達、田や畑の相談に顔を出してくれるご近所さんが居るようだが、ご主人を亡くされて山間の独り暮らしは、孤独との闘いだと言う。また、この頃は周りの人の数より猪や獣の数が増え田畑を荒らすと嘆く。ともあれ短歌を詠まれご健康で居て頂きたい。
体調の悪しきも忘れ観入り居る
卓球混合ダブルスの金
川本 素子
●先のオリンピックでの、卓球の男女混合ダブルスで水谷隼と伊藤美誠が金メダルを取った、あの優勝戦で強豪中国を破った試合を観戦した歌である。
作者は体調を崩し鬱々とした毎日を送っていた。当時コロナ禍でオリンピックを開催出来るか否か議論が起こったほど、日本は国民の健康状態も経済状態まで逼迫していた。そんな中でオリンピックの開会式が行われ、次々と競技が行われ始めた。期待感は有ったが、国際的には弱いと思われていたさまざまな競技でそれぞれのアスリートたちの目覚ましい活躍が見られ、曾て無いメダル獲得の大会となった。作者も周りの人たちの影響を受け、ついテレビを見る羽目になった。
表出の歌、非常に臨場感が有り簡潔に良くまとめられているが、三句目が少し流れが悪く、読むと(みいりいる)となる。作者は観入るをどうしても使いたい心境なのだと思うが、ここは「見蕩(みと)れ居る」とされては如何だろうか?心を奪われるほど見入ってしまう。という意味で作者の念いも表現されると思う。
今月の短歌
きみの瞳(め)に
映(うつ)りし我は
その奥の
君の彷徨(さまよ)ふ
こころが欲しい
康史