一心に活け花をする姉の背は
細くて丸く亡母(はは)を顕(たた)しぬ
井上 襄子
●短歌の師でもある姉君は作者に常に厳しいのだそうだ。筆者も以前、短歌の勉強会で結社の垣根を越えたお付き合いをさせて頂き、父兄に大変人望の厚い校長までなさった教育者のご令姉は、常に背筋をピンと伸ばされて若輩の筆者にも慇懃(いんぎん)な姿勢を崩されない方である。
作者は教育一家に生まれ育ったそうで、父上も姉上も厳しかったがお母様はいつも優しかったと話す。自立してからの生き方にも厳しい姉、作者の詠む短歌にもなかなか良い評価をもらえないので、姉の家は敷居が高いと話す作者だが、それでもそこは実の姉妹なので介護の仕事柄、体を気遣って独り住まいの姉を折々訪ねる。
一心に花を活けている姉の背を見ていて、そこに優しかった亡き母を想い浮かべたのである。原作のままでも良いが、「一心に花を活けゐる姉の背は」とする手も有る。厳しかった姉上もこの頃は優しかった亡母の背に似てきたと詠んだ、秀歌。
彼は誰月照らす先には君が待つ
息を切らせてペダル踏み込む
田上 久美子
●「彼(か)は誰(たれ)月(つき)」は夕方の黄昏月「誰(たれ)ぞ彼(かれ)」時の月(いわゆる暗くなり近くの彼(ひと)の顔が誰だか分かりにくくなる時間帯の月)に対して、早朝の未だ暗く(彼は誰?)と見分けにくい時間帯の月である。日本の言葉は同じようにうす暗い時間帯でも、朝と夕では「彼(か)は誰(たれ)」と「誰(た)そ彼(かれ)」というように細やかに表現を変えるのである。
作者は早朝の月が照らす先に待っている「君」に逢うため、自転車を走らせているのである。上弦の月は早い時間に出て、早朝には西の山に沈んでいるので、遅い時間に昇り明け方まだ西空に残っているのは下弦の月ということになる。
短歌を詠み始めるとそういう自然の営みの、小さな変化にも気付いてくるものである。この作者も夕方に出ている月と、早朝の月の詠み方をキチンと使い分けている。まだ短歌を始められて日が浅い作者だが、その辺りも真摯に勉強されている姿勢に敬服する。これからも一層歌作りに精進して頂きたいと願ってやまない。
農業も機械化されて田仕事に
操られるは人かもしれぬ
萬代 民子
●作者は過疎化していく山村でご主人を亡くされたあとも、ご近所の扶(たす)けを得ながら立派に田畑を守り、愛犬を相棒として一人で農家に暮らして居られる。
高齢になってこられ野菜作りも大変になっているが、毎日畑で農作業されるのが日課だそうで、孤立化を心配する短歌の仲間が時々山歩きやドライブに誘ってくれるのが本当に楽しみと屈託が無い。
さて掲出歌であるが、日本の農業はそのほとんどが高齢者か、壮年者がいても普段は会社の勤めをしながら、農繁期だけ限定の機械化休日農業従事者である。
作者の若い頃は、農繁期は、老いも若きも村人総出の人海戦術で田植えなど行っていたが、今では広い田もたった一人田植機に乗り、数条もの苗が見るみる植えられ、刈り取りもコンバインがあっという間に田仕事を済ませていく。ただ作者は機械化された農作業は、人間が機械に操られていくのでは?と危惧した歌である。
冷蔵庫開ける途端に何取るか
瞬時に忘れる自分が怖い
花村 輝代
●一読して「あるある! そうだよね」と同感される読者も多いのではと思われるが、作者は最愛のご主人を亡くされ谷間の山村に独り暮らしをされている。
筆者は認知症対応の介護の仕事を経験していたので、一日に五人以上の他人と会話している人は、一人暮らしで話し相手が無く何日も会話が無い人と比べ認知症になる確率が低くなると認識しているので、この作者にも電話で良いからできるだけ他人と話しをするよう勧めている。
「この頃物忘れがひどくなりました」と話されるので、物忘れする事が多くなったと認識できている時は、まだ心配されなくても良いですよと伝えている。
短歌はこのように誰にも共感されるけれど、然(さ)りとて誰にでもすぐ短歌に詠めるわけではない事象を詠み込む事が出来れば、内心してやったり!と楽しくなる。
短歌は頭を使って言葉を紡ぐという意味で、認知予防に効能があると思える。