微かなる記憶の中に亡母(はは)が居て
短冊吊すやさしその手は
井上 襄子
●七夕の祭りも最近は暦のままに行う事が多くなってきたが、以前筆者の地方では旧暦の八月、夏休みの最中に近くの藪から細竹を伐ってきて準備をした記憶がある。
作者は子供の頃、母親が朝の畑の里芋の葉から集めた水玉に墨を擦り、短冊に筆で願い事を記していた淡い思い出が、毎年この時期になると頭をよぎるのである。
記憶の中の母はいつも優しく作者を見守っていてくれるのだが、顔の輪郭もその優しかった声もしだいに朧になっていく。この一首の中に切なさが滲み出ている。
短歌の鑑賞の仕方を、もっとその歌の文法や作風を厳しく批評すべきではないかとご批判を頂く事がある。至極尤もなご意見としてお受けしているが、その反面私は短歌の鑑賞の仕方は、様々な形態があって良いと理解している。私はまず作品の生まれた背景に想いを馳せ、作者の念いにどこまで近づき理解してあげられるか。が私流の鑑賞だと自負している。この結句「やさしきその手」とする方法もある。
真ん丸い地球に太陽お月様
何故に人間尖(とが)りて啀(いが)む
白井 真澄
●作者は高齢の男性であるが、先日心臓の動脈弁を交換する大変な手術を受けられたばかりで、「先生、私も一級身体障害者の手帳が交付されました」とあっけらかんと話される。固(もと)より強い精神力を持たれていて現代風野武士の趣きを漂わせて居られる個性豊かな歌人だとリスペクトしている方である。
この歌は予後の病室で、このところのロシア軍のウクライナ侵攻のニュースに胸を痛めていた時、ふっと耳にした言葉を短歌に纏めたものだとお聞きした。
工学的理論上、真ん丸い球体が一番安定した力関係を保てる物体だと我々は知識では理解している。重力の関係上多少の歪みは有るが、ほぼ真ん丸い地球、太陽そして月。その大自然の恵みを受けて生きてゆけている人間が、何故尖り合い啀み合って生きているのか? 作者は衷心からこの紛争で大変な不孝が起こっていることに心を痛めているのである。スケールの大きなアイロニー詠で大好きな歌である。
亡母(かあ)さんのナスの糠漬け美味しくて
挑戦するが又も失敗
屋内 友恵
●この歌も一首目と同じく亡き母上の回想詠で、同じような想いを持たれている方も多いのではと掲載歌として取り上げさせて頂いた。
作者は母上がご存命の時、いつも作って食べさせてくれていた茄子の糠漬が好きでたまらなかった。結婚してから自分でも何度か作ってみたが、お母さんの糠漬のようにはなかなか巧く出来ない。そのうち諦めて作らなくなっていた。
あるとき、ふっとその茄子の糠漬に再挑戦してみたくなった。作者自身体調を崩し、昔のお母さんとの思い出をあれこれと過(よ)ぎらせていて、懐かしい糠漬の味をもう一度家族と味わいたくなったのだろう。初句の「亡母(かあ)さんの」の出だしが良い。
ただ残念なことに三句目の「美味しくて」は現在味わっている表現と取られてしまいかねない。そこで「思い出し」とされては如何だろう。美味しくては直喩だが「思い出し」として、読み手にさぞ美味しい糠漬だったのだろうと思わせるのだ。
日除けには つば広帽子一番と
斜(はす)にかむりて鏡を覗く
信清 小夜
●なんとも女性らしい仕種の瞬間を詠まれていて、同性の読み手を思わずうんうんと頷かせ、クスリと独り笑いさせてしまう短歌である。
短歌はこのように普段の生活の一コマを、さり気なく詠むことも大切で案外力んで作る歌よりも、ウイットに富んだ作風になることが多いものである。
作者はよく散歩をされるのだが、女性のお肌の敵はUV(紫外線)で、そこはつば広帽子で何としても日焼けを避けなければならない。その次は如何に格好良く見せられるか。そこも女性としては無関心ではいられない。玄関の鏡の前で帽子の角度を少しずつ変えてみながら、一人でポーズを作って見ているのであろう。
全てに女性らしさが表出されていて、特に下の句の「斜(はす)にかむりて鏡を覗く」は端的な表現でありながら、その行動の裏側の「どう?似合ってる?可笑しくない?」と、もう一人の自分に問い掛けている心の状態まで滲ませていて良い歌だと思う。
今月の短歌
拘泥(こうでい)を
バサリと捨てて
嫋(しな)やかに
老ひてゆきたし
夏の残月
矢野 康史
矢野康史さん プロフィール
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