折り詰めの筍(たけのこ)ご飯六つあり
白いかっぽう着顕(た)ちくる昼餉
福島 明子
●白い割烹着は作者のお母様ではないだろうか?
折り箱に詰められた筍ご飯が六個。春の筍の季節になると、いつもお母さんが手間を掛けて作ってくれていた、あの美味しい筍ご飯。短歌の場合具体的な数字が大きな役割を持つと、歌人の佐佐木幸綱氏からお聞きしたことがある。
その数字が作者の友人や家族の多さを暗に語る事になるのだ。この歌の場合、結句に昼餉とあるので、この筍ご飯の折り詰め弁当を持って何処かの野山に友人たちとピクニックに出掛けているのだろうか?桜の花見には筍はまだ少し間に合わない気がするので、山菜採りに出掛けた時のお昼が筍ご飯の折り詰めだったのかも?などと、読み手に色々な想像を思い巡らせる詠み方になっている。
下の句「白いかっぽう着顕ちくる」と表現するだけで、作者が割烹着の主(母)?への思慕の情が深いと、さり気なく読み手に感じさせる秀歌である。
代掻きし水田に映る山の端の
小枝揺らげり風音もなく
宰務 とき子
●五月の立夏を過ぎた辺りから、農家のまわりでは田拵(ごしら)えが活発になり始め、耕運機が賑やかな音を立てて田の土を起こしたり、田起しが済んでしばらく経ったら表面を細かく均し、いよいよ水を田に引き入れて田植えの準備の代掻きとなる。
この代掻き田や、あるいは田植えの済んだばかりのまだ苗の小さな早苗田などは、一面の湖と化しひととき、農村の美しい風景を生み出す季節なのである。
作者は多忙な毎日の生活の中から、その情景を一枚の絵のように短歌に表現されている。風のない朝方などは水鏡となった代掻き田の水面に、近くの山々が逆さまに映り込み、この時期にしか見ることのできない地上画となる。
しかも作者は映り込む山の端の細部にまで目を向け、下の句「小枝揺らげり風音もなく」と細やかな描写で纏めている。差し詰め映画のシーンで言えば、最初周りの代掻きをしている田を撮っていたピントを、小枝に絞っていった表現がみごと。
後ろ田に水が入れば蛙たち
どこに居たのか集い合唱
早瀬 榮
●季節柄、前の作品と同じ田植え前の水を引き込んだ田園風景の短歌である。
ただし、前の歌では風景そのものを描写し短歌に詠み込んでいるのに対し、この歌の作者は同じ季節を「音」で感じ取っているのだ。
このように同じ季節の同じような代掻き田を、作者が変ればまったく違った作品に詠みあげられているのが短歌の面白いところである。
この作者の場合、多くの短歌に「蛙」や「雀」など小さな生き物を愛おしく詠まれていて、それらの生き物をまるで友達や子孫のようにさえ感じさせるほど、短歌の中に彼らに対する優しさが感じられる。一茶の「痩せ蛙負けるな一茶これにあり」や「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」など、ふと頭をよぎる作風である。
確かに田に水が入るまでは、それほど蛙の存在に気が付かないのに、水が引き入れられた途端にそれまで何処に居たのかと思わせる賑やかな合唱である。
朝光(あさかげ)にふくらみ始(そ)めし胸揺らし
少女漕ぎゆく大人の自転車
川上 悠子
●男性が読むと少しドキッと、ほんのり色香を感じさせる短歌なのかも知れない。
作者は女性なのでその辺りを殆ど色気とは捉えられていないようで、見て感じたままを正直に表現したそうだ。最近の少女の成長は我々昭和族には頗(すこぶ)る早く感じる。
朝の光りに通学の少女であろうか、少し膨らみ始めた胸を恥ずかしそうに急いで自転車を漕いで作者の前を通り過ぎたのだ。
歌会の場でも、「胸揺らし」は膨らみ始めし少女の胸には強過ぎる表現ではないかと意見も出たのだが、例えば「膨らみ始めし胸反らし」としたら、逆に少女が胸を誇張しているようにも感じられる。
もしかしたら少女は恥ずかしそうに、少し前屈みに自転車を漕いでいたからこそ作者にはブラウスの中で少し揺れて見えたのかとも思われる。素晴らしいのはその自転車が大人の自転車と表現されたところである。少女が漕いで駆け出して行くのはまさに大人への道だと、暗に読み手に感じさせていて秀歌である。
今月の短歌
眼を閉ぢて
稚葉(わかば)の薫り
深く吸ひ
耳を澄ませば
不如帰(ほととぎす)鳴く
矢野 康史
矢野康史さん プロフィール
あさかげ短歌会津山支社代表。全国あさかげ短歌会代表。津山市西苫田公民館と一宮公民館の2カ所で短歌教室を指導している。津山市文化協会副会長。
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